断酒してから、539日が経過した。
ほぼ1年半が過ぎようとしている。
最近の社会情勢から外での会食もなくなり、さりとて家で飲もうともあまり思わないので、まだしばらく断酒は続きそうではある。
積極的ではなく、消極的な選択かもしれないけれど。
それでも、その積み重ねには、価値を見てもいいのではないかと感じる。
さて、価値を見る、とはどういうことだろうか。
=
「継続は力なり」という格言をよく聞くように、私たちは「積み重ねること」に価値を見る。
いや、価値を見出しやすい、と表現した方がいいのだろう。
6歳からずっとピアノを練習してました。
漢字ドリルを10冊やりました。
ランニングで月間50キロを達成しました。
5年間毎日ブログを書きました。
天皇賞は実に160回もの歴史を数えます。
…などといった「積み重ね」には、私たちは価値を感じやすい。
「すごいなぁ」とか、「なかなか真似できないよ」とか、称賛されたり、褒められたりする対象になりやすい。
小さなことを積み重ねることが、大きなことを成し遂げる大切な要素であることは、多くの人が認めるからなのだろうか。
もちろん、「続けること」と同じかそれ以上に、「辞めること」も大切だ。
辞めることができないと、新しいことが始められないし、水は流れないと濁る。
それでも、「続けること」の価値は変わらない。
=
芸術と価値を考えるときに、有名な逸話がある。
かのピカソが彼のファンに、ナプキンにサラサラと書いた似顔絵を「100万ドル」と値付けをした、という逸話だ。
「100万ドル?だって、30秒しかかかってないですよ」と驚くファンに、「いえ、40年と30秒です」と当時40歳のピカソは答えたという。
似たような話で、作曲家のすぎやまこういち氏がドラゴンクエストの序曲を5分で書いた、という話がある。
「序曲」は、5分でできました。そういうパッとメロディーが浮かんだ曲のほうが、こねくり回して作った曲よりも、素直に出来がいいものです。ただ、この曲は5分プラス、僕がそれまで生きてきた55年分が詰まっている。
ピカソやすぎやまこういち氏が30年や55年という歳月の中で積み上げてきた努力、あるいは経験といった諸々の発露の一端が、その似顔絵であり序曲である、と。
そして、積み重ねられてきたのは、練習や努力、あるいは才能といったポジティブに見えるものだけでもないだろう。
そこに至るまでの苦悩や絶望、あるいはミルフィーユのように積み重ねられた、人生の織りなりというものが、そこに現れる。
だからこそ、価値がある、と。
芸術と価値を考えるときに、非常に興味深いテーマだ。
=
さて、こうした続けること、積み重ねることに価値を認めるならば。
いま、自分でいることに価値を見ても、いいのではないかと思う。
ときに自分を嫌いになってしまったり、
ときに自分を責めてしまったり、
ときに自分ではなない誰かの仮面を被ってしまったり、
ときに自分を否定してしまったり、
ときに自分を見失ったり、
…ときに、そんなことがありながらも、あなたは、いまここにいる。
その積み重ねは、誰のものでもなく、あなただけのものだ。
ピカソとも誰とも比べるものでもない。
あなたは、いまここにいる。
もし、続けること、積み重ねることに価値を認めるならば、いま自分がここにいることに、もっと価値を見てもいい。
その価値は、誰にも奪われないし、何かに比べることもできないものだ。
あなたは、いまここにいる。
パソコンンのブラウザか、あるいはスマートフォンの画面かを眺めている、あなたがいる。
あなたは、いまここにいる。
その価値は、すごいことなんだ。