季節の流れは、ひと時も「そこ」に留まらない。
5月の初めまで咲いて楽しませてくれた桜の花は、いまはもう新緑の緑に包まれている。
言い尽くされてきたことだが、桜の花の美しさの理由の一つは、その散り際にある。
一斉に春を告げたかと思うと、何の未練もないように、その花を吹雪にして散らす。
その潔さが、これまで私たちの心に深く刻まれてきたのだろう。
そして、桜の花と入れ替わるように、咲き始めたツツジの花も、早いものはもうその花びらがしおれてきていた。
ツツジは、桜と異なり、その花を自ら散らすことができない。
生命力の翼のようなその花弁が、しおれて皺だらけになろうとも。
いつまでも、そこに留まり続ける。
それは、桜の体現する潔さとは対極にあるのかもしれない。
されど、ツツジはツツジであるからこそ、自ら花を落とせない。
桜になる必要もなく、薔薇になろうともせず。
しおれたその花弁をつけたまま、そこにいる。
立夏を過ぎ、梅雨の足音が聞こえてきても、その花は小さく首を垂れている。
潔さも、そこに居続けることも。
変わらず、美しい。
変わらず、ただそこにある。
それは、桜が桜であり、ツツジがツツジであるから。
誰かの光が美しいように、あなたの光もまた美しい。
誰かがあなたになれないように、あなたもまた誰かになれない。
あなたは、あなた以外にはなれない。
あなたは、あなたであるから美しい。
ツツジの3密。