季節のめぐりは、足を止めず。
例年になく早めに咲いた桜は散り。
それと入れ替わるように路傍で咲き誇っていたツツジも、いつしかその花弁を傾けるようになった。
純白の花弁も、少し疲れたようで。
咲き誇った後の散り方も潔い桜と違い、ツツジは自らその花を落とすことができない。
咲くことに、全てのエネルギーを使い尽くしたかのように、ゆっくりと萎れていく。
その姿は、生きることの美しさを見せてくれる。
「引き際は潔く」
武士道の影響からか、どこかわれわれは、 それを是とする価値観があるようだ。
引き際の美学として、それはそれで素晴らしいものだが、だからといってそうではないものが美しくないわけではない。
もがき、あがき、苦しみ、未練たっぷりの引き際の中にも、美学を見出すことはできよう。
枯れゆく花こそ、美しい。
そう思えたならば、どんな瞬間、どんな景色、どんな人のなかにも、美を見つけることができる。
その身を吹雪にして散る桜も、自らその首を落とす椿も、自らは花弁を落とせないツツジも、それぞれがそれぞれの生を生きている。
桜であるから、椿であるから、ツツジであるから。
自らの生を生きればこそ、ときに咲き、ときに萎れ、ときに枯れる。
その瞬間を切り取れば、いろんな価値判断ができるかもしれない。
けれど、それぞれが、それぞれを生きているからこそ。
どの瞬間にも、美は存在する。
そして、その肯定は、穏やかな落ち着きをもたらす。
心が痛んでいるときに、たとえば将来が怖くて考えられないときや、過去が思い出すのもつらいとき、私は現在に注意を払うことを学んだ。私が今いるこの瞬間は、つねに、私にとって唯一、安全な場所だった。その瞬間瞬間は、かならず耐えられた。今、この瞬間は、大丈夫なのだ。私は息を吸い、吐いている。そのことを悟った私は。それぞれの瞬間に美がないことはありえないと気づくようになった。
母が亡くなった晩、電話をもらった私は、セーターを持って家の後ろの丘を登っていた。雪のように白い大きな月が、椰子の木ごしに昇っていた。その晩遅く、月は庭の上に浮かび、サボテンを銀色に洗っていた。母の死を振り返ると、あの雪のように白い月を思い出す。
「ずっとやりたかったことをやりなさい」ジュリア・キャメロン著(サンマーク出版、原題:The Artist's Way)より
咲き誇っていようと、吹雪となり散ろうと、萎れていようと、枯れ朽ち果てていようとも。
どんな瞬間であれ、いまこの瞬間は美しく、大丈夫なのだ。
枯れゆく花こそ、美しい。