感情を海に例えるならば、思考はその海岸に建つ砂の城なのだろう。
前者は揺蕩うに任せるのみだが、後者は自ら選ぶことができる。
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感情は日々、瞬間瞬間に湧き上がり、そして消えていく。
どんな感情もコントロールすることはできず、ただ過ぎ去るのを待つことしかできない。
それを無理矢理コントロールしようとすると、おかしなことになる。
それは、海の表情をどうにかコントロールしようとすることに似ている。
時に穏やかに凪ぎ、時に満ち、時に引き、時に荒れ、時に大きな波が打ち寄せる。
それは移ろいゆく景色と同じで、ただ流れていく。
昨日は晴れた、凪いだ。
今日は風強く、波高く。
さて、明日はどうだろう。
海街に暮らす人は、ただそれを眺めて暮らす。
それをコントロールしようとは思わないだろう。
感情もまた、ただ浮かんでは消え、ただ揺蕩い、ただ流れていく。
嬉しい、悲しい、寂しい、悔しい、愛しい…あるいは、名のつけようのないような、こころもよう。
それは、コントロールできない。
ただ浮かび、ただ消え、ただ流れていく。
それを留めたり、コントロールしようとするのは、無駄なことだ。
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他方、思考というものは、選ぶことができる。
ものごとを、どう捉えるかについての選択権を、人は与えられている。
一つの事象に対して、無限の解釈が可能だ。
あの人は私を嫌っている。
あの人は私を愛していた。
私は私を否定している。
それでも私は自分を愛している。
それは、人間に与えられた偉大な力の一つである。
それは、海街に遊びにきた子どもたちが、一生懸命に砂浜にお城を建てるように。
どんな豪華絢爛なお城を建てるかは、子どもたち次第だ。
中世ヨーロッパのような荘厳な城を建てるのか。
古代ギリシャに特徴的な円柱を持つ神殿か。
立派な天守閣と外郭を持つ戦国時代のお城か。
その選択権を、誰しもが持っている。
いや、もっと自由でいい。
ただ砂をこね、ただ砂を固め、ただ砂を積み…それだけでもいい。
どんな思考でも、人は選ぶことができる。
それは、人に与えられた偉大な力の一つだ。
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やがて陽が傾く。
引いていた潮が、少しずつ満ちる。
夢中になって遊んでいた子どもたちも、もうその姿はない。
波打ち際が近づき、その子たちが建てたお城に波のしぶきがかかる。
やがて波は、そのお城をまるまると呑み込んでいく。
立派に建てたそのお城も、海面から突起が見えるくらいになる。
その突起も、次の波で崩れる。
聞こえるのは、波の音だけになる。
やがて波が引いた後には、平らな砂浜が広がる。
明日は、どんな城を子どもたちは建てるのだろう。
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感情は選べないが、思考は選ぶことができる。
前者は揺蕩うに任せるのみだが、後者は自ら選ぶことができる。
だから、後者は人に与えられた偉大な力の一つである。
だからこそ、前者は人に与えられた偉大な恩恵の一つである。