大嵜直人のブログ

たいせつな何かをなくした心に、ともしびを。

言葉に、選ばれる。

真実の泉の前では、目の前の事実が反対に見えます。

 

時に、何がしかの文章を書こうと思ったとき。

何を表現するのか、どの言葉を選ぶのか、その主体は書く私自身にあるように見えます。

 

けれど、それは真実とは逆だと、感じるときがあるのです。

 

私が選んでいるように見えて、その実、選ばれるのは私である、と。

 

書こうとする何がしか、表現しようとする何かを、私が選んでいるのではなくて。

ただ揺蕩っているそれに、私が選ばれるか、どうか。

 

書くために言葉を選んでいるように見えて、実は言葉に選ばれているのは、この私。

 

そういう感覚になると、時に怖くなります。

私は、言葉に選ばれるのだろうか、と。

 

書かないのでも、書けないのでもなく、「選ばれない」。

それは、世界のことわりを知った者に、冷酷な瞳で見つめられているような。

そんな、怖さなのかもしれません。

 

見えているものと、その逆が真実。

そうしたパラドックスは、こころの世界ではよくある話です。

 

相手に決断を迫りたくなる時ほど、実は自分自身に対して決心が必要なときがあります。

傷つけられた者よりも、傷つけた者の方が傷ついているという真実だったり。

自分が欲しくてたまらないものは、実は世界に与えるものであるというパラドックスだたり。

 

それはともかくとして、選ばれる私であるかどうか。

それは、なかなかに怖いものだと感じるのです。

 

主体性があるように見えて、その実、何もなくてすべてお任せなのですから。

出された料理を、信頼してすべてたいらげるしか、なさそうです。