真実の泉の前では、目の前の事実が反対に見えます。
時に、何がしかの文章を書こうと思ったとき。
何を表現するのか、どの言葉を選ぶのか、その主体は書く私自身にあるように見えます。
けれど、それは真実とは逆だと、感じるときがあるのです。
私が選んでいるように見えて、その実、選ばれるのは私である、と。
書こうとする何がしか、表現しようとする何かを、私が選んでいるのではなくて。
ただ揺蕩っているそれに、私が選ばれるか、どうか。
書くために言葉を選んでいるように見えて、実は言葉に選ばれているのは、この私。
そういう感覚になると、時に怖くなります。
私は、言葉に選ばれるのだろうか、と。
書かないのでも、書けないのでもなく、「選ばれない」。
それは、世界のことわりを知った者に、冷酷な瞳で見つめられているような。
そんな、怖さなのかもしれません。
見えているものと、その逆が真実。
そうしたパラドックスは、こころの世界ではよくある話です。
相手に決断を迫りたくなる時ほど、実は自分自身に対して決心が必要なときがあります。
傷つけられた者よりも、傷つけた者の方が傷ついているという真実だったり。
自分が欲しくてたまらないものは、実は世界に与えるものであるというパラドックスだたり。
それはともかくとして、選ばれる私であるかどうか。
それは、なかなかに怖いものだと感じるのです。
主体性があるように見えて、その実、何もなくてすべてお任せなのですから。
出された料理を、信頼してすべてたいらげるしか、なさそうです。