自分を愛する、ということは、状態ではなくプロセスである。
それは正誤善悪の判断をつけるのではなく、すべてを受け入れ続ける、ということでもある。
例えるなら、前者は出来上がった美しいケーキをぴかぴかに磨かれたショーケースに並べること。
そして、後者は思うように形にならぬ生クリームの絞りを楽しむ過程。
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どんな人であれ、その人に対して世界で一番厳しいのはその人自身である。
たとえば、その人がその人自身に対してしている態度、あるいはその人自身に投げかけている言葉。
それを、知らない人が誰かにしているのを見たら、どうだろう。
ドン引きするくらいの態度や言葉を、自分自身に投げつけていないだろうか。
あるいは、アカの他人にそんなことをしたら、名誉棄損あるいは侮辱罪といった罪で問われるかもしれない。
ところが、これがこと対自分自身となると、とたんにそうした罪は適用されないようだ。
それは、見えないだけに厄介だ。
その投げつけられた暴言は、毒となって徐々にこころを、身体を蝕んでいく。
そして、残念なことにそれを外界に投影し、ますます自分を痛めつける世界をその瞳に映し出す。
世界でたった一人しかいない、自分自身。
本来ならば、その自分自身の最大の味方は、自分自身であるべきなのに、往々にして最大の敵になってしまうことがある。
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そうした自己攻撃、自己否定の果てに、人はあるとき気づく。
これは、よくない。
もういい加減に、辛い、しんどい。
自分が、自分自身の味方にならないといけない。
自分が、自分自身を愛さないといけない。
人は、自分を愛そうと歩き出す。
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ところが、多くのそうしたプロセスは、困難を極める。
自分自身を愛したいのに、愛せない。
自分自身を許したいのに、許せない。
染みついた習慣は逃れ難く、「自分自身を愛せない自分」「自分自身を否定してしまう自分」を否定するというメタ構造が生まれる。
それは、ある意味で「目標」が引き起こす分離ともいえる。
「自分自身を否定して攻撃する自分」は悪い自分。
「自分自身を許せて愛せる自分」はよい自分。
その分離が、始めたはずのプロセスを困難にする。
いうなれば、「自分自身を愛せる自分」だけを存在させようとする。
それは、ショーケースに並べるケーキを選別しているようなものかもしれない。
そこで、選ばれなかった不揃いなケーキたちは、番重の隅に集められて、悲しそうな瞳でこちらを見ている。
「おいおい。親にも、先生にも、友達にも、いままで付き合ってきたパートナーにも、愛してくれなかったのが、俺たちだ。形が崩れてるとか、ゴミが付いているとか、焦げができているとか。それでも、愛してほしかったんだ。覚えてるだろ?愛してくれなかった悲しさを。悔しさを。みじめさを。そんな俺たちを、やっぱり『お前』も見捨てるのか?」
拗ねたその不揃いなケーキたちを、あなたは見捨てられず、立ち尽くす。
後ろでは、先輩が早く並べろと急き立てる。
あなたは動けない。
どうしようもない罪悪感と無力感に苛まれる。
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さて、どこで間違えたのだろう。
自分自身を愛するとは、「自分自身を愛せる自分になること」、すなわち「形の揃ったケーキをショーケースに並べること」とした前提が、そもそも違っていないだろうか。
それは単に「状態」のことであり、ただの「結果」に過ぎない。
有限で不確実で曖昧な「生」というものに、確たる「結果」を目標として持ち込むことが、間違っていたのかもしれない。
実のところ、自分自身を愛するとは、その「結果」ではなくて、「プロセス」なのだ。
それは、自分を否定し攻撃するところから、自分自身を愛せなくて悩み苦しむところも、全て「プロセス」であり、愛すべきものだ。
それは、いつになっても完成しないのだろう。
それで、いいのだ。
きっと。
何百年もかけても完成しないサクラダ・ファミリアは、完成しておらずとも、その「プロセス」を観に、世界中から人が訪れるではないか。
自分を愛するとは、そんな「プロセス」である。
生地をこねて、メレンゲを泡立て、生クリームを絞る。
時にダマになり、ときに荒くて泡立たず、ときに手が滑って不格好なクリームになる。
それで、いいのだ。
その過程こそが、自分を愛するということ、そのものなのだから。
多くのパティシエ、パティシエールの原点を聞くと、食べてくれる誰かの笑顔を想いながらつくる過程そのものが、楽しかったと答えるように。
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あなたは、番重の隅で反旗を翻す、不揃いなケーキたちを愛おしく眺める。
誰かが触ってしまって、形の崩れた生クリームを指に取り、ぺろりと舐める。
「美味しいよ、とっても」
心なしか、ケーキたちの生地が輝き、生クリームがぴんと立った。
あなたはそのケーキたちを、大事そうに冷蔵庫に仕舞う。
業務用冷蔵庫の観音扉を、あなたはそっと閉める。
あなたは、銀色の扉の向こう側から、ケーキたちの寝息を聞いたような気がした。