時に芒種、ぼうしゅ。
芒(のぎ)と呼ばれる、針のような穂先を持つ稲や麦といった植物の種を蒔く時候。
時に腐草為蛍、くされたるくさほたるとなる。
この時期の里山をほのかな光とともに舞う蛍は、昔は腐った草がかたちを変えた生きものと考えられていた。
芒と、蛍。
梅雨空の下で見るそれらが、示唆することは興味深い。
根を張れ、腐敗して光となれ、と。
陰鬱でじめじめするこの時期にこそ、である。
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どんよりとして、はっきりとしない空の表情が増えた。
燦々と照るでもなく、さりとて大雨が降るではなく。
どちらつかずの灰色の空は、そのまま人の世の写しかもしれない。
それでも、そんな空のもとで、花を咲かせるものもある。
紫陽花である。
一雨ごとに、その小さな花を咲かせるように。
その表情の機微は、梅雨空の陰鬱さがあればこそ、なのか。
ときに小さなものを乗せながら。
紫陽花は、咲く。
雨がその花弁を揺らし、時に陽の光にその顔を向ける。
雨とともに、紫陽花は咲く。
時に、腐った草が蛍になるように。
時に、雨に濡れる大地に種を蒔くように。
時に、一雨ごとに一つの花を咲かせる紫陽花のように。
梅雨なればこそ、育つものもある。
もしも、梅雨が恩恵だったとしたら。
紫陽花は、その果実かもしれない。
もしも、それが恩恵だったとしたら。
その果実とは、何だろう。
この世の重力を集め尽くしたような、重たい梅雨空に想う。
もしも、それが蛍を飛ばす腐れ草だったとしたら。
もしも、それが芒の種を蒔いていたとしたら。
もしも、紫陽花を咲かせる雨だったとしたら。
どうだろう。
ぬかるんだ大地に一粒ずつ種を蒔くくらいなら、芒なんていらなかった。
ほんとうに、そうだろうか。
腐れ草になるくらいなら、蛍など見たくなかった。
ほんとうにほんとうに、そうだろうか。
陰鬱な雨を見るくらいなら、紫陽花にも出会わない方がよかった。
ほんとに?
ほんとにほんとに?
人が握り締めている大抵のことは、その裏側に本音があるものだ。
それは、いつだってシンプルだ。
出会ってくれて、ありがとう。
そう、素直に言うことができれば。
いや、言えても、言えなくても同じかもしれない。
それはコインの裏表でしかない。
固く握りしめている分だけ、世界の、自分の愛を信じているだけなんだ。
ならば、せめて、梅雨空に、紫陽花に。
今年も出会ってくれて、ありがとう。
そう、伝えよう。