それが絵画であれ、文学であれ、音楽であれ、あるいは舞台や漫画、映画であれ。
おおよそどんな方法であっても、表現をすることを生業とする者ができることがあると、信じている。
それは、「ほんの小さなもの」を、それがそこにあるよ、と指差すことである。
ときにそれは、誰かの心の琴線に触れる。
表現することとは、己が中のほんの小さなものを、そっと守り続けることなのかもしれない。
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おおよそ世の中の芸術と呼ばれるものの持つ力は、この「指差し」にある。
誰もが見向きもせず素通りしていく路傍に、ほんの小さな花が咲いていること。
誰もが価値がないと捨て去ったガラクタの中に、幼い頃に遊んだ玩具を見つけること。
誰もが当たり前と思っているものの中に、差別や抑圧、あるいは搾取といったものが内在していること。
あるいは、誰にも打ち明けられない、苦しい胸のうち。
そんなものを、
「ここに、こんなものがあるよ」
と指差す力が、芸術にはある。
言い方を替えれば、それは問題提起とも言える。
インターネットにより「情報」の価値が下がり、さらにAIによって「正解」にすら価値がなくなった現代において、それは殊更に重要だ。
その指差しは、「情報」や「正解」のように多くの人目を惹き付けることはないかもしれない。
その指差しは、多数派を占めないがゆえに、無力であるかもしれない。
けれど、表現者は、あるたった一人の胸の内の、とてもやわらかい部分に触れ、包み込み、そして勇気づけることができる。
それは、「情報」にも「正解」にもできないことだ。
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けれど、その芸術の持つ力は、同じ力を以て表現者を苦しめることがある。
大きな才能や魅力といったものの裏には、それだけ多くの葛藤や否定があるように。
すべての表現者は、常に思い悩む。
昨日の資産が今日の負債になるような、めまぐるしく変わる世界の中で、何ができるのだろう。
たった一人にすら理解してもらえるか分からないのに、何の価値があるのだろう。
100人いれば100人に同意されないようなことに、何の意味があるのだろう。
それがゆえに、すべての表現者は、「こんなところに、こんなものがあるよ」と声を上げることをためらう。
そして、いつしかその選択を自分の中で割り切っていく。
そんなことを、大切にしている人なんていないさ、と。
そんなことは、どうでもいいこさ、と。
表現者にとって大切なことであればあるほど、それを守り、さらに表現し続けることは難しいものとなる。
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だからこそ、なのかもしれない。
だからこそ、表現をするのだ。
そんなに大きな声を張り上げなくてもいい。
数の論理に負けても、心地よいマジョリティに入れなくてもいい。
ただ、自らが大切に思う、小さなものをそっと守り続けること。
それが、何より表現者として大切なのではないかと思うのだ。