大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

8月6日、祈り。

思ったよりも早く着いた。

すでに夏の力強い陽射しが、熱田神宮の杜を照らしていた。

車のドアを開けた途端に、蝉の声がシャワーのように降ってきた。

午前中によく鳴く、クマゼミの声。

息子がいたら、大喜びするのだろうか。

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朝の早い時間、人気は少なかった。

高い木の枝から降り注ぐ蝉の声は、やはりシャワーのようだ。

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人気の少ない参道を歩くのは、瞑想に似ている。
玉砂利の音が、心地良い。

遠くで、ニワトリの鳴く声が聞こえた。

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歩いていくと、その御姿が見えた。
堂々として、境内を歩きながら、朝を告げていた。

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朝の陽射しが境内を包む。

どこか、その陽射しの中に秋を感じてしまい、切なくなる。

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誰もいない拝殿。

ゆっくりと、手を合わせる。

アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮である。

20世紀に生きたドイツの哲学者、テオドール・W・アドルノは「文明批判と社会」の中でそう述べた。

アドルノは、ナチス・ドイツの所業を、ある特異点や何らかの失敗として捉えるのではなく、合理性と効率性を追い求める西洋文明の「帰結」であるとする。

すなわち、アドルノにおいてはアウシュビッツという「野蛮」を生みだしたのは、その対極と考えられがちな「文明」あるいは「文化」と考えられているものである、と。

それらの「文明」あるいは「文化」が引き起こしたアウシュビッツの後、その根本への批判が成されないならば、詩を書くことすらも、「野蛮」と言わざるを得ない。

当然ながら、ここでの「詩」とはアイロニーであり、文化・芸術、あるいは哲学を含めた人間の「理性」を指している。

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75年前の広島を襲ったのも、また理性の権化ではなかったか。

ドイツにユダヤ系の出自として生まれ、ナチスの台頭を目の当たりにしていたアドルノの言は、私たちに「文明」、「文化」、あるいは「理性」への態度を再考させる。

21世紀に生きる私は、詩を書くことは赦されるのだろうか。

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よく、晴れていた。

もう一度。

手を合わせて、祈ろうと思った。