大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

アイスクリーム、ぼとん。 ~痛みは、才能を正確に描写する。

あっ、という声を出す間もなかった。

息子が手にしていたアイスクリームが、プラスチックの棒からツツツ…と滑っていく。

ぼとん。

まだ夏の余韻に残る午後の陽射しに照らされて、コンクリートの上に茶色の染みになって広がっていく。
甘い香りに誘われたのか、すぐに黒い大きな蟻が数匹、その茶色い池に寄ってきた。

娘の大好きな、チョコレートのアイスクリーム。
それを、息子に一口おすそ分けをしようと渡したが、夏の余韻の残る午後の陽射しに照らされて、すでに柔らかく溶けていたようだった。

プール上がりの至福のひとときは脆くも壊れて、娘は泣いて癇癪を起こす。

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落ちちゃったのは仕方ないよ。新しいのを買おうよ。

そう何度も提案するも、娘はもういい!と取り付く島もない。
車を停めた場所へと、癇癪を起こしながら一人歩いていく。

暑い陽射しの下、目に涙を溜めたまま。

違う、そうじゃなかった。

ほしいのは、「結果」じゃないんだった。
いつも、そこを間違えるのは、私が男性だからだろうか。

彼女がほんとうに欲しいのは、甘いアイスクリームじゃない。

そうでなければ、新しい2個目のアイスが手に入れば、満足するはずじゃないか。

「痛み」を、分かってほしいのだ。
「痛み」を、知ってほしいのだ。

それが叶わないから、癇癪を起こして、新しい二つ目のアイスを拒否する。

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時に、「痛み」は、「才能」を形づくる。
何に「痛み」を感じるかは、その人の持つ「才能」を正確に描写する。

たとえば、以下のような話。

人から伝え聞いた話なので、真偽のほどは分からないが。

ある、男性がいた。

その男性は、子どもの頃に「ラーメンが食べたい」と父親に訴え、ラーメン屋に連れて行ってもらった。

その子はとびきり美味しそうなラーメンを注文したが、父親は何も頼まなかった。

 

おとうさんは、たのまないの。

 

そう聞く男の子に、父親は「うん、おとうさんはお腹空いていないんだ」と答えた。

やがて運ばれてきた、いい匂いのするラーメンを、男の子はかきこむようにして食べた。

お腹いっぱいになって満足した後。

父親は、その丼に残ったラーメンのつゆを、ごくごくと飲み干した。

ふう、と息をついた父親の横で男の子は、

 

父親は、お金がないのだ

 

とはじめて悟った。

猛烈な罪悪感を覚えるとともに、その男の子は、
大きくなったらお金をたくさん稼いで、お父さんにお腹いっぱいにラーメンを食べさせてあげよう」
と固く心に誓った。

 

のちに、その男の子は格闘技の世界チャンピオンにまで上り詰めた。

嵐のようなパンチを浴びても、決して倒れない彼の背中を支えたもの。

世界中のタフな男たちをなぎ倒してきた、彼の拳に宿っていたもの。

それは、幼い頃に感じたあの痛み。

そして、父にラーメンを腹いっぱいになるまで食べさせたい、という想いだったのだろうか。

 

次の話も、同じだ。

 

ある、男性がいた。

その男性の母親は、まったく食事をつくらない母親だった。

他人様の家庭を、自らの善悪で裁くのは愚かなことではある。

されど、事実として。

幼い頃から男性は、空腹とともにあった。

 

いつしか、男性は自分で料理をつくるようになった。

自分と、そして、自分の母親の分も。

来る日も来る日も、朝、昼、晩と、料理を続けていた。

やがて大きくなった男性は、その生業として料理人を選んだ。

男性のつくる料理は多くの人々を喜ばせ、そのうちに広くその名が知れ渡っていった。

そしてついには、料理人として栄誉ある賞を受賞するまでになった。

 

その賞を受賞したスピーチで、男性は母親に感謝の辞を述べた。

はじめは、自らの空腹を満たすために料理を始めたのかもしれない。

けれど、いつしか。

その料理は、母親に捧げる料理に変わっていた。

母親に対して、感謝しかない、と。

壇上で男性は、優しい瞳で母への想いを語る。

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「痛みがあったから、成功した」という、人生訓めいたことを書きたいのではない。

それは、娘にとっての二つ目のアイスと同じだ。
それは、単なる「結果」に過ぎない。

その二人の男性が抱えた「痛み」。

その「痛み」こそが、彼らにとって、どうしても今生で体験したかったことのように感じる。

それを、何かを通じて、表現すること。

そして、誰かと分かち合うこと。

それができたとき、その「痛み」は、その人の手を離れて、あの日の空へ還すことができる。

その瞬間に、「痛み」は昇華する。

それが、ときに「才能」と呼ばれるものの正体なのだろう。

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そして、そのことは、一般的に思われていることと逆の帰結をもたらす。
それは、「痛み」という陰があるから、「才能」が光り輝く、のではないという帰結だ。

「痛み」は、陰ではない。

その逆だ。

それこそが、光であり、本体だ。

強い陽の光が、陰影を形どるのだとしたら。
「痛み」こそが光であり、「才能」とはそれによってできた陰に過ぎない。

「痛み」こそが。

私たちに、自分が何であるか、を思い出させてくれる。

私たちを、私たち自身にしてくれる。

「才能」なり、成功なり結果なり、あるいは輝かしい未来にフォーカスしてもいい。

ただ、時には。

時には、「痛み」に耳を傾ける、それに寄り添い、そしてその「痛み」を誰かに乱雑にぶつけるのではなく、昇華して共有してもいい。

それは、自分のアイデンティティであり、背骨である。

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翻って、娘が感じた痛み。
おそらくは、「いつも周りを気遣って、自分だけ損をしてしまう」という痛み。

無論、息子に「ひとくちどうぞ」と渡したときにアイスが「ぼとん」としたのは、単なるタイミングに過ぎない。

けれど、娘はその行為と痛みを結び付ける。
「いつも、私が我慢して、私が損をする」と。

周りの気持ちを察することができるゆえ、誰かに手を差し伸べることが当たり前になる。

その優しさは、いつしか我慢と犠牲に変わり、そして「痛み」と結びつく。

私ばかり、損をする。
私だけ、我慢している
私だけ、バカを見る。

「アイスクリームぼとん」という事象は、ただのきっかけに過ぎない。

ある特定の「痛み」は、もとをただせば、私たちが抱えている普遍的で、そして根源的な「痛み」から滲み出ている。

すなわち、
誰も、私のことを分かってくれない。
どうせ私のことは、誰も愛してくれない。
私は、孤独だ。
私なんか、いない方がいい。
と。

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帰りの車の中。

無言の娘に、言葉をかけた。

いままで、よくがんばってきたよね。
よく、ひとりでがまんしたよね。
さびしかったよね。
いやだったよね。
いままで、よくがまんしたよね。

何度も、何度も。

自分に語りかけるように、何度も、何度も。

娘の視線は、遠く流れる景色を、眺めていた。 

いつしか、娘は寝息を立て始めていた。

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