私たちが強い痛みを感じるできごとには、大きな意味があります。
なぜ、そこに痛みを感じるのかを考えていくと、そこにはどうしても自分が叶えたかったヴィジョンと、才能が見えてきます。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.すべてのトラウマは、選択を与えてくれる
だれでも、トラウマ(心的外傷)になるような最悪の出来事を経験しています。
その出来事が起きたとき、本当は私たちには「それを自分にとって、どういう経験にするか」という選択をすることができます。
致命傷を負ってそれを乗り越えられず、やがて自分の息の根をとめてしまうような経験にするのか、それとも、その出来事が海底の砂の一粒にすぎず、そのまわりには美しい真珠を生みだすのか、といった選択があるのです。
すべてのトラウマには、「才能」という贈り物が隠されています。
それを発見するためにはより深いヴィジョンが必要になります。
あなたがこの贈り物を受けとっていないと、トラウマそのものが防衛の一部になり、傷みを遠ざけるために使う「性格の鎧」になってしまいます。
新しい目であなたの才能を見ていこうとするのなら、鎧がはずれ、エネルギーが流れはじめることでしょう。
それは健康や生命力、幸福や楽しさのために使うことができるエネルギーであり、癒しという視点から見れば、すべてはまさしくそこで必要な最善のことが起きているということがわかるはずです。
トラウマが起こる前に、あなたは選択することができます。
トラウマがもたらす自分自身と人へのコントロールを選ぶでしょうか。
それとも、コントロールをさらに手放して、あなた自身のなかにある「才能」という贈り物を信頼することを選ぶでしょうか。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.267
2.過去の痛みが奪う選択肢
今日のテーマは、一つに絞るのが難しいですね。
さして言うならば、「痛み(死)と再生のプロセス」でしょうか。
過去の痛みが、選択肢を奪う
胸が張り裂けるような想いをするような、人生最悪のできごと。
信頼していた友人に裏切られる。
死ぬほど愛した人にフラれる。
愛する家族を亡くす。
全力を尽くした試験に落ちる。
引用文のなかでは、「トラウマ(心的外傷)」と書かれていますが、ここでは単に「痛み」としますね。
過去にそうした「痛み」を負うと、私たちの心は縮こまります。
そして、二度とそんな「痛み」を味わいたくない、と感じます。
それは、当たり前のことですよね。
熱したストーブに、うっかり手を触れてしまって火傷したら、二度と触れないようにしよう、と思うように。
しかし、そうした「痛み」に対する反応は、ときに私たちの選択肢を奪ってしています。
たとえば、信頼していた友だちに、そっと打ち明けた悩みが、翌日には周りのすべての友だちが知っていて、バカにされたりした。
そんなことが起きたら、信頼していたから打ち明けたのにと、とてもショックを受け、傷つくのではないでしょうか。
そして、そんな「痛み」を二度と感じたくないとするならば。
「もう二度と、誰にも悩みなんて打ち明けない」
そう考えるのは、ごく自然なことだと思うのです。
しかし、その反応は、私たちの選択肢を奪います。
「自分の悩みを、人に話してはいけない」
自分が傷つかないために設定したそのルールが、新しい苦しみを生むのは、容易に想像できるのではないでしょうか。
このように、自分が経験した「痛み」は、もうその「痛み」を感じないようにするがゆえに、新しい苦しみを生みます。
そしてそれは、自分にとって大きな「痛み」であればあるほど、そのルールもまた厳格なものになっていくようです。
カウンセリングで出てくるような問題の多くは、この過去の「痛み」がつくったルールが引き起こしていることが多いものです。
3.ヴィジョンが与える自由
「痛み」を癒す先にあるもの
さて、よく言われることではありますが、すべてのできごとはニュートラルです。
そこに意味づけ、色付けをしているのは、私たち自身です。
それが、引用文のなかでいう「選択」なのでしょう。
起こったできごと、その事実は変えることはできません。
しかし、そのできごとに対する解釈は、変えることができます。
「痛み」を引き起こしたできごとを、どう解釈するのか。
人生最大の悲劇としてみるのか、それとも「あれがあったからこそ、いまがある」と見るのか。
それを決めるのは、その人自身です。
しかしそうはいっても、自分が強い「痛み」を感じるできごとを、「恩恵だった」と思えるようになるのは、なかなかにハードルが高いものです。
まずは、その「痛み」を感じた自分に、どこまでも寄り添ってあげること。
その「痛み」とともにあった感情を、感じ尽くすこと。
それが大前提にはなるのですが、今日はその少し先にある「才能」と「ヴィジョン」にフォーカスしてみたいと思います。
才能とヴィジョン
「問題の陰に才能あり」と、よく言われます。
問題を問題としているのは、その人の才能であり、問題を解決するのもまた、その人の才能です。
そのできごとを、「人生最大の悲劇」とするのは、その人がそのことに強く胸を痛める才能があるからです。
人を愛すること。
人を信頼すること。
人とつながりをつくること。
周りの人を助けること。
誰かの力になること。
そうした望みが叶わなかったとき、人は深く傷つきます。
そしてその望みが、自分のなかの深くコアな望みであればあるほど、人は深く傷つきます。
深く傷つくことは、弱いことでも、悪いことでも、何でもありません。
ただ、そのことが、自分にとってたいせつだからこそ、傷つくだけなんです。
愛する人に、自分の愛を届けることができないことで、深く傷つき、傷みを覚えるのは、それだけ人を愛する才能があるがゆえに、だと思います。
人生最大の悲劇、大きな痛み。
その裏側には、どうしても叶えたい、それを叶えるために生まれてきたといってもいい、自分の望みがあります。
それを、「ヴィジョン」と呼びます。
その「ヴィジョン」を強く望むがゆえに、それが叶わないできごとがあると、深く傷つくのかもしれません。
そして、その「ヴィジョン」を叶えるのが、「才能」です。
これは、必ずワンセットです。
その「ヴィジョン」を持っているということは、それを叶えるための「才能」もまた、持っている。
それは、コインの裏表のようなものなのでしょう。
そして、「ヴィジョン」と「才能」は、人に自由を与えてくれます。
だいぶ、お話が広がり過ぎた気がしますので、最後に少しまとめてみますね。
痛み、ヴィジョン、そして才能
あまりにも強い「痛み」を感じるできごとが起こると、人はその「痛み」を避けるためにルールをつくります。
そのルールが厳格であればあるほど、私たちは選択肢を失い、苦しみます。
その苦しみが、どうしようもなく、大きくなったとき。
人は、自らの内面と対峙せざるを得なくなります。
それは、自分の根源、アイデンティティをめぐる旅でもあります。
なぜ、そこに「痛み」を覚えるのか。
自分が叶えたかったものは、何なのか。
自分がこの世で実現したい世界は、どんなものなのか。
それらを問うことは、自分自身の痛みを癒すことと同義であり、車の両輪のようなものかもしれません。
そこで見つけた「ヴィジョン」。
そして、それを叶えるために与えられた、「才能」。
それは、かつて自分が課したルールや制限を、打ちこわしてくれます。
どうしても、この世で叶えたかったこと。
それがあるがゆえに、人は深く傷つきもするし、それがゆえに、重い鎧を着込んで、自分の殻に閉じこもろうとする。
けれど、それはその人にしか持ち得ないヴィジョンだからこそ、なのだと思うのです。
カウンセリングをしていく中で、そうした真珠のようなヴィジョンに出会えるのは、この上ない喜びです。
今日もここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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