もう20年くらいも前の話ではあるが。
当時学生でチェロを弾いていた私とその友人たちは、ヨーロッパの某オーケストラの演奏者の方々と、会食をする僥倖に恵まれたことがあった。
テレビやCDの中でしか見たことのない憧れのプレイヤーたち。
怖気づかなかったかと言えば、ドキドキしながら向かったように覚えている。
それでも、変に遠慮することなくその場に居合わせることができたのは、やはり「若さ」ゆえなのだろうか。
彼らは、異国のアマチュアの学生たちにも気さくで、よく飲み、よく食べていた。
その中にも、どこか人としての気品が漂っていた。
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宴もたけなわ、酒も入ってみな上機嫌。
その縁をつないでくださった方を通訳にしながら、いろんなことを聞いた。
どの質問にも、彼らはにこやかに、真摯に答えてくれた。
その中で、誰かが質問をした。
世界中を飛び回る超ハードスケジュールの中で、幾多の公演活動をしているのに、いったいどうやって仕事の疲れを癒しているのですか、と。
「仕事の疲れは、仕事で癒すんだよ」
コンサートマスターは、そうにこやかに答えてくれた。
そんな世界があるのだ、と感心したことを覚えている。
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20年以上も経って、あたらめてその言葉を思い出す。
人生の中で為すべきこと、自分が世界に与えられること、与えられた使命、あるいは、ライフワーク。
そのようなものが明確であり、それを仕事にしているからこそ。
「仕事の疲れは、仕事で癒す」と言えるのだろうか。
「仕事」と聞くと、疲れやストレスと結びつきやすいが、自分を癒す「仕事」をしている人も、世の中にはいる。
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ここで陥りがちな誤りは、「そんな仕事に就けていない」と自分を卑下することだ。
どんなときも、どんな理由であれ、自分を卑下したり、否定することは猛毒である。
彼らは彼らであり、私には私の、仕事があるだけだ。
そこに正誤善悪、優劣も無い。
そして同じように、「100か0か」の思考法もまた、息苦しくなるだけだ。
「いま」の仕事の中で。
自分が癒される瞬間は、ないだろうか。
100のうち100すべてが、そういう時間であるのは難しかもしれないが。
そのうちの、1か2かもしれないけれど。
仕事に癒される瞬間が、あるのならば。
それを、見つめることから始めてもいいのかもしれない。
その先に、「仕事の疲れは、仕事で癒す」と言えるときが訪れるのかもしれない。
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彼らは彼らであり、私は私、と先に書いたものの。
偉大な人は、偉大な人でもあった。
その会食のとき、私と友人たちは練習の帰りだった。
私たちの抱えてきた楽器を見て、彼らは「何か弾いてみてくれよ」と言った。
断れるはずもなく、冷や汗をかきながら友人たちと演奏した記憶がある。
さしずめ、イチロー氏やダルビッシュ投手の前で、草野球チームの投手がピッチングを披露するような感じだろうか。
弾き終わると、彼らは「よかったよ。では、御礼に」と言って、私たちの楽器を使って同じ曲を弾いてくれた。
まるで別の楽器のように響く私のチェロ、そして同じものとは思えないような、その音楽。
こういう人が世の中にいるんだな、と妙に感動したのを覚えている。
楽器を構えた時の、優しくも、どこか悪戯を企む少年のような、彼らの瞳の輝き。
いい思い出である。