「無邪気さ」とは、最も厄介な感情である「罪悪感」をも癒す、至高の在り方といえます。
そんな「無邪気さ」の偉大な力と、そしてそれを取り戻すヒントについて、お伝えします。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.おさなごのようなあり方が、神の国の入口をつくる
ここでいう「おさなご」とは子供っぽさや未熟さという意味ではなく、純真無垢ということです。
じつはこれこそ私たちと神とのつながりの唯一の真の姿なのです。
子供たちはシンプルに生きており、すぐに心を集中することができます。
やってくるものをオープンに迎え入れ、無邪気で、自分に価値を感じています。
両親を見て、自分にはあらゆるよいものが与えられることを知っています。
本当は私たちも同じように、自分のところにあらゆるよいものがやってくることを知りながら、無邪気にワクワクと待ち遠しい気持ちで神と世界を見ることができるのです。
自分がすべてを背負いこまなければとか、それを改善しなければという考えを手放して、自分自身を開いていけば、あなたをとりまく環境のなかに自然なよろこびやユーモアが生まれることでしょう。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.445
2.「無邪気さ」が癒すもの
今日のテーマは、なんでしょうね。
おさなごのようなあり方とありますが、「無邪気さ」というフレーズで、書いてみたいと思います。
世界に対する純粋なおどろきの目
私が学生だったころ、とても心惹かれる一文に出会ったことがありました。
「言語学者は、言語に対する純粋な驚きを、
経済学者は、貨幣に対する純粋な驚きを、
哲学者は、世界に対する純粋な驚きを忘れてはいけない」
学問を追究するとき、その対象への「純粋なおどろき」を忘れてはいけない、という戒めでした。
なぜ、言葉というものが存在するのだろう。
なぜ、こんなにも不思議な貨幣というものがあるのだろう。
なぜ、世界はこのような姿をしているのだろう。
そうした、目に見えるものに対する純粋な驚き。
そうしたものを忘れてはいけない、という戒めです。
それを忘れない限り、世界は私たちにいろんなことを教えてくれます。
心理学を学ぶ上においては、人の心の不思議さと偉大さを、常に忘れないようにしておきたいものです。
もちろん、それは学問をする上に限らず、何をするにつけても同じことなのかもしれません。
子どもたちが教えてくれるもの
子どもといると、私たちが忘れていた何がしかを、思い出させてくれます。
それは、多くの人が経験のあることだと思います。
私たちの心に訴えかけるものが何かを考えたとき、それは彼ら・彼女らの目が開かれている、というのが一つあるように思います。
それは、見ようによっては、無知に見えるかもしれません。
けれども、先入観のなさ、固定概念のなさ、あるいは私たちがとらわれがちな観念やビリーフを持っていないとも見えます。
言い換えるとそれは、世界を常に驚きと感動の目で見ている、といえます。
無邪気さ。
そうした目で世界を見ることを、子どもたちは教えてくれます。
「おさなごのようなあり方が、神の入口をつくる」
まさに、引用文のタイトルの通りです。
「無邪気さ」が癒す罪悪感
さて、そうした「無邪気さ」は、それに触れる人を癒します。
純粋無垢、童心、無邪気。
そうした意識に触れると、私たちのなかにある「罪悪感」が癒されていきます。
とても重い罪を背負った人は、なかなかに周りの人の愛を、受けとれないものです。
はい、自己紹介をしているようですが、気にしないようにします笑
そうした罪悪感まみれの人でも、幼い子どもが差し出した一輪の花なら、受けとれるかもしれません。
その小さな子どもの笑顔には、「この花を取るのに、どれだけ私が苦労したか知ってるの?」とか、「あなたはこれを受け取らないといけないの」とか、そういったたぐいの「重さ」はありません。
きれいな花が咲いていた。
だから、それをあなたに捧げたの。
ただ、それだけのことです。
そうした「無邪気さ」が、罪悪感まみれの人にとっては、この上ない救いになります。
「無邪気さ」は、罪悪感を癒します。
もちろん、その一輪の花を差し出す側は、癒そうと思ってそうしているわけでもないのでしょうけれども。
3.無邪気さとは、もともと持っていたもの
「無邪気さ」は、最も恐ろしい罪悪感を癒します。
けれども、私たちは子どもではなく、いろんな経験をしてきた大人です。
そうした私たちが、どうしたら「無邪気さ」を取り戻すことができるのかについて、考えてみます。
まず、最初におさえておきたいのは、「無邪気さ」とは誰もが持っていたものである、ということだと思います。
それは、ある人だけに与えられた特別な資質であるわけではなく、すべての人が、もともと持っていたもの。
それが、「無邪気さ」です。
だから、もともと持っていたものだから、大丈夫。
そうとらえることができれば、変に気負わなくてもよくなります。
その上で、どうしたらそれを思い出すことができるのか。
それはやはり、好きなこと、ワクワクすることが、鍵になるのでしょう。
そうしたものが、私たちを「無邪気さ」に導いてくれます。
とてもシンプルなことですが、好きなことをしているとき、私たちは義務感や悩みや心配の外側にいます。
ただただ、いまこの時間を楽しんでいる。
この世界とのかかわりに、喜んでいる。
そうした時間が、私たちに「無邪気さ」を思い出させてくれます。
好きなことをする時間を、過ごすこと。
言葉にしてみれば、至極当たり前の話なのですが、それが私たちに「無邪気さ」を呼び起こし、周りの人をも癒してくれるようです。
「好きなことが何か、思い浮かばない」といった状態であれば、まずはゆっくりと休んで、自分の感性やセンサーをチューニングし直すことが、大切なのでしょう。
いまそれが見つからなくても、大丈夫です。
それを見つけていく時間を含めて、「無邪気さ」への旅なのでしょう。
その旅路を歩むほどに、私たちは「無邪気さ」を取り戻し、そして周りの人に多くの恩恵を与えていくようになります。
今日は、「無邪気さ」というテーマで、お伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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