大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

惚れた腫れたの魔法が解けてからが、実は本番だ。

ときに、人は好きなことをしていると、なぜか褒められ感謝される出来事に出逢う。

ただ、何の打算も、犠牲も取引もなく。
ただ、それをしているだけで、周りが喜んで笑顔になってくれる。

ときに、そんなことがある。

何度か、そういった経験が重なる。 

すると、喜んで自分の好きなことを外に向けて発信し、自らの才能あるいは魅力と言ったものを世界と分かち合う。

「いよっ!待っていました!」とばかりに、周りは、世界はそれを喜び、祝福する。

その反応に人はまた喜び、自分の持つ魅力に対して自信を持つ。

これこそが、私の才能だ。
これが、私の生きる道なのだ。

そう、確信する。

しかし、多くの場合。

最初は称賛されていたそれも、続けていくうちに見慣れたものになっていく。
勇気を振り絞った挑戦は、いつしか手垢にまみれていく。
周りの反応は徐々に減っていき、人はますます虚しくなる。

自分よりも共感を得ていたり、認められたりしている人を見て、ますます無力感を深める。

「それ」を始めた当初のワクワクや輝きは、どこへ行ったのだろう。

こんな、一円にもならないことを、誰にも認めてもらえないことに、意味があるのだろうか。

辟易として、人は疑い始める。
自らの才能を、世界を、他人を。

この道でよかったのだろうか。
違う道が、あったのではないか。

ときに、人は魅力あふれる相手や惹きつけられる人に出逢い、恋に落ちる。

ただ、何の打算もなく、見栄も衒いもなく。
ただ、その人に惹かれ、自然と笑顔になっている自分に気づく。

ときに、そんな人に出逢う。

幸運なことに、相手もまたそのように思っていることも、あるだろう。

恋は盲目のことばの通り、恋愛初期の多幸感、世界から祝福されている感じは強烈だ。

一つ一つの相手の呼吸が、そのまま自らの喜びとなる。

あの人こそが、ずっと求めていた人だ。
あの人こそが、運命の人だ。

そう、確信する。

しかし、多くの場合。

恋愛初期から時間が経つにつれて。

自分の輝かしい魅力を投影していた相手は、いつしか自分のもっとも醜く汚い部分を投影するようになる。

こんなはずじゃなかった。
こんな人じゃなかった。

いつしか、片方が感情を抑制し極度に理性的になっていくのと同時に、もう一方は感情の荒波に呑み込まれて、嵐の海に浮かぶ木の葉のように揺らぐ。
あるいは、片方が暴君のようにふるまうのと同時に、もう一方は奴隷のようなポジションにおさまる。

そして、我慢に我慢を重ねたマグマは、あるときついに爆発する。
理性的な方が感情を爆発させ、奴隷は反乱を起こす。

関係性の逆転は、ときに終わりをもたらす。

この人でよかったのだろうか。

もっと違う人が、いたのではないだろうか。 

どちらも似たような、そしてありふれた話だ。
だが、それは、終わりを示すのではない。

惚れた腫れたの魔法が解けてからが、実は本番だ。

何の意味もなく、誰からも評価されなくても、あの人に認められなくても、1円にもならなくても、誰にも共感されなくても、

それでも、続けるのか。

あの最低な、どうしようもない、裏切り者で、愛情のかけらもくれない、同じ空間にいたくもない、

それでも、愛するのか。

その見ている闇は、誰でもない、自分自身のものかもしれないのだけれど。

それを続けるのは、
その人を愛するのは、
自分が、自分であること、そのものかもしれない。

人がその人として生きていることの、そのものかもしれない。

疲れたかもしれない。
やる気も失せたかもしれない。
どこにも行けないかもしれない。
もう信じられないかもしれない。

それでも、少し休んででも。

それを続けても、いいと思う。
愛し続けても、いいと思う。

もちろん、同じくらいに、それを止めてもいい。

愛さなくてもいい。

けれど、誰も見ていなくても、何の意味も無くても、たとえ相手がどうあろうとも。

それを続けてもいいし、あの人を愛し続けてもいい。

もちろん、もっと愛してほしいという自分の中の3歳児を、あやしながら。

そうしていると、

今いる場所が、実は山の頂上ではなく、
登山道の入り口でもなく、
実は、
ベッドから起きただけだったことに気づくのだ。

まだ、先は長いんだ。

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ついたちの空。色を混ぜたパレットのように。