ときに、人は好きなことをしていると、なぜか褒められ感謝される出来事に出逢う。
ただ、何の打算も、犠牲も取引もなく。
ただ、それをしているだけで、周りが喜んで笑顔になってくれる。
ときに、そんなことがある。
何度か、そういった経験が重なる。
すると、喜んで自分の好きなことを外に向けて発信し、自らの才能あるいは魅力と言ったものを世界と分かち合う。
「いよっ!待っていました!」とばかりに、周りは、世界はそれを喜び、祝福する。
その反応に人はまた喜び、自分の持つ魅力に対して自信を持つ。
これこそが、私の才能だ。
これが、私の生きる道なのだ。
そう、確信する。
しかし、多くの場合。
最初は称賛されていたそれも、続けていくうちに見慣れたものになっていく。
勇気を振り絞った挑戦は、いつしか手垢にまみれていく。
周りの反応は徐々に減っていき、人はますます虚しくなる。
自分よりも共感を得ていたり、認められたりしている人を見て、ますます無力感を深める。
「それ」を始めた当初のワクワクや輝きは、どこへ行ったのだろう。
こんな、一円にもならないことを、誰にも認めてもらえないことに、意味があるのだろうか。
辟易として、人は疑い始める。
自らの才能を、世界を、他人を。
この道でよかったのだろうか。
違う道が、あったのではないか。
=
ときに、人は魅力あふれる相手や惹きつけられる人に出逢い、恋に落ちる。
ただ、何の打算もなく、見栄も衒いもなく。
ただ、その人に惹かれ、自然と笑顔になっている自分に気づく。
ときに、そんな人に出逢う。
幸運なことに、相手もまたそのように思っていることも、あるだろう。
恋は盲目のことばの通り、恋愛初期の多幸感、世界から祝福されている感じは強烈だ。
一つ一つの相手の呼吸が、そのまま自らの喜びとなる。
あの人こそが、ずっと求めていた人だ。
あの人こそが、運命の人だ。
そう、確信する。
しかし、多くの場合。
恋愛初期から時間が経つにつれて。
自分の輝かしい魅力を投影していた相手は、いつしか自分のもっとも醜く汚い部分を投影するようになる。
こんなはずじゃなかった。
こんな人じゃなかった。
いつしか、片方が感情を抑制し極度に理性的になっていくのと同時に、もう一方は感情の荒波に呑み込まれて、嵐の海に浮かぶ木の葉のように揺らぐ。
あるいは、片方が暴君のようにふるまうのと同時に、もう一方は奴隷のようなポジションにおさまる。
そして、我慢に我慢を重ねたマグマは、あるときついに爆発する。
理性的な方が感情を爆発させ、奴隷は反乱を起こす。
関係性の逆転は、ときに終わりをもたらす。
この人でよかったのだろうか。
もっと違う人が、いたのではないだろうか。
=
どちらも似たような、そしてありふれた話だ。
だが、それは、終わりを示すのではない。
惚れた腫れたの魔法が解けてからが、実は本番だ。
何の意味もなく、誰からも評価されなくても、あの人に認められなくても、1円にもならなくても、誰にも共感されなくても、
それでも、続けるのか。
あの最低な、どうしようもない、裏切り者で、愛情のかけらもくれない、同じ空間にいたくもない、
それでも、愛するのか。
その見ている闇は、誰でもない、自分自身のものかもしれないのだけれど。
=
それを続けるのは、
その人を愛するのは、
自分が、自分であること、そのものかもしれない。
人がその人として生きていることの、そのものかもしれない。
疲れたかもしれない。
やる気も失せたかもしれない。
どこにも行けないかもしれない。
もう信じられないかもしれない。
それでも、少し休んででも。
それを続けても、いいと思う。
愛し続けても、いいと思う。
もちろん、同じくらいに、それを止めてもいい。
愛さなくてもいい。
けれど、誰も見ていなくても、何の意味も無くても、たとえ相手がどうあろうとも。
それを続けてもいいし、あの人を愛し続けてもいい。
もちろん、もっと愛してほしいという自分の中の3歳児を、あやしながら。
そうしていると、
今いる場所が、実は山の頂上ではなく、
登山道の入り口でもなく、
実は、
ベッドから起きただけだったことに気づくのだ。
まだ、先は長いんだ。
ついたちの空。色を混ぜたパレットのように。