もう長月も晦日。
道理で、朝晩の空気がひんやりと感じ始めるわけだ。
もうどこにもない真夏の日差しを、それでも探してしまうのは、どこか郷愁に似ている。
七十二侯では「蟄虫坏戸、むしかくれてとをふさぐ」のころ。
息子の大好きな虫たちも、もう冬に備えてその身を隠し冬ごもりに入る時候なのに、夏をまだ探している自分がいることに気づく。
それでも、秋は秋で、空を見上げるのが楽しいようで。
澄んだ空の下、高くなった空を見上げる。
まだら雲、うろこ雲、筋雲…夏の間には見られなかった雲の姿が、そこにあって。
心地よい風とともに、そこにいたくなる。
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空を見上げるとき、人は未来を思い描く。
地面を見るときは、過去に想いを馳せる。
それは善し悪しではなく、地に足を着け根を張るのか、天に向かい枝を広げるのかの違いだけだ。
未来を思い描くとき、「願い」が湧き上がる。
ところが、ほんの一瞬のうちに、思考という黒雲がその「願い」を覆う。
「果たしてその願いは叶うのだろうか」
「どうやって叶えたらいいのだろうか」
「叶わなかったらどんなにみじめだろう」
黒雲に覆われた光は、そっと身を引く。
最初から、そんなものはなかったのだ、と。
いつしか空を覆ってしまった黒雲は、雷雨となり、清らかに流れていた川は濁流となり荒れ狂う。
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感情とは、3歳児と同じで。
無視をすればするほど、「ここにいるよ!こっちをみて!」とその存在を主張する。
たとえば「寂しさ」を否定して押し殺すことなど、できはしない。
それは、肚の中に溜め込んだだけだ。
その溜め込んだ「寂しさ」は、自分自身が感じることでしかなくならない。
それまで、「ぼくはここにいるよ!」と主張し続ける。
「願い」も、感情と同じなのかもしれない。
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ほんとうのところ、その「願い」が叶うかどうかなど、大した問題ではないのかもしれない。
秋のまだら雲を見上げながら、ふと浮かんだ「願い」のように。
その「願い」が「在る」こと自体に、気付いてあげることの方が、よっぽど重要だ。
そうだよね、そう思うよね、素敵な願いだね、と。
感情、あるいは3歳児と同じように。
感情だって。
凍えるような「寂しさ」と向き合うと、「だから誰かとつながらないといけない」とはならない。
その逆に、「だから一人でも大丈夫なんだ」と安心する。
3歳児だって。
「何かしてあげること」よりも、その感情に寄り添ってもらうことの方が、よっぽど大事だ。
何もしてあげなくても、ただ否定せずそこにいるだけでいい。
感情も、3歳児も、その安心感を求めている。
私たちと、まったく同じように。
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だから。
その「願い」が、どんな突飛なものでも。
叶いそうにないものでも。
バカにされ、批判されそうなものでも。
ただ、それが自分のなかに「在る」こと自体を、認めてあげることだ。
長月晦日のそら。