家の中は、自分の心理状態とリンクしているとはよく言われる。
深層意識の部分が癒されると、押し入れや物置の中を掃除したくなったりする。
あるいは、その逆も然りで、見えない部分を整理したり掃除したりすると、妙に気分がスッキリしたりする。
時に、自分の手を使って、身の回りに愛を差し向けるのも、いいものだ。
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先日、ランニングの途中で出会った美しい花。
大地を向いて咲くその花は、「己が足元を見よ」と語りかけているようだった。
だからというわけでもないだろうと思うが、なぜか無性に自宅の床の吹き掃除がしたくなった。
掃除機や柄のついた拭き掃除の道具もいいのだが、昔ながらの雑巾を使って拭き掃除というのも、いいものだ。
四つん這いになって、床に手をつける。
普段とは違う目線に、見えていなかった汚れを見つけたり。
何より、「手で触れる」ということは、そこに「意識を向ける」ことと同義だと思わされる。
それは言葉を替えれば、「愛を向ける」ということなのだろう。
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バケツに水を汲み、雑巾を絞る。
無心になって、床を拭いていく。
すぐに拭き取れる汚れもあれば、そうでない黒ずみもあり。
どこか、古い記憶が浮かんでは消えていく。
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祖父母の家は、私の育った実家から自転車で10分もかからないくらいの距離にあった。
両親が共働きだったこともあり、日常的に世話になった。
私が子どもの頃、まだ半日授業があった土曜日のお昼を食べさせてもらったり、夏休みなどの長期休みは姉とともに終日面倒を見てもらっていた。
当時で、古い歴史を感じさせる家だった。
そんな祖父母の家に、年末の大掃除の手伝いに行くようになったのは、いつごろのことだっただろう。
小学校の中学年くらいだっただろうか。
お手伝いという名目で、まだ仕事納めの来ていない両親に代わって、面倒を見てくれていたようにも思う。
決まって、私の仕事は「窓ガラス拭き」だった。
祖父母の家じゅうの窓ガラスを、一日かけて拭いて回る。
ガラス用の洗剤を吹きかけて、雑巾で拭き、さらにもう一度乾拭きをする。
師走の冷たい風にさらされながら、それでもガラスが透明になっていくのが、妙に心地よかった。
私の息子も、時折ガラスを「シュッシュさせろ!」と洗剤を振りまいて拭きたがるのを見ると、やはり血を引いているのかもしれない。
西の方に見える山からの吹きおろしは冷たく、すぐに手は赤くかじかんで、痛んだ。
それでも、終わった後に祖母は優しい顔をして「ありがとうね」と言ってくれた。
しばらく、年の瀬の恒例行事にしていたように思う。
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古い記憶に浸りながら、あらかたの場所を拭き終わる。
靴下の上からでも、フローリングの感触が変わったようで心地よい。
触れるということは、愛を向ける、ということだ。
時に、自分の手を使って、身の回りに愛を差し向けるのも、いいものだ。
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「己が足元を見よ」
大地に向いて咲く花が、教えてくれた。
それは、地に足をつけよ、とも言い換えられる。
地とは、地(land)であると同時に、血(blood)でもある。
どんな風景が、目の前を通り過ぎようとも。
どんなに空が荒れ、嵐吹きすさぼうとも。
己が地と血は、足元に在る。