「行けるかどうか分からなくても、チケットは取るんだよ」
よく母は、チェロを弾いていた私に、そう言ってくれた。
「たとえ行けなかったとしても、『行ける権利を買った』と思えばいいから。だから、行きたいコンサートやらがあったら、チケットは取るんだよ」
そう、続けていた。
クラシック音楽が好きだった母は、よく東京で行われるコンサートの豊富さを、うらやましいと言っていた。
文化や新しいこと、おもしろい人は、全部東京に集まる、と。
高度経済成長期、そして東京一極集中が進んだ、あの時代に生きた母親の世代にとって、東京への憧れとは、私とはまた違ったものがあったのだろう。
それは、また私と、インターネット・スマホネイティブである息子たちのような世代とも、また違うのだろう。
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それはともかくとして。
冒頭の母の言葉も、ある意味で豊かな時代の産物だという見方もできる。
なかなかに、世情が不安定になったり、先行きが見えなくなると、不確かなものに投資をするハードルは上がるものだ。
右肩上がりに経済成長を続けることが、前提になっている時代とは、やはり考え方も違ってくる。
それでも。
いや、それだからこそ、母の言は、重い意味を持つのかもしれない。
行けるから、買う。
ではなく、
買ったから、行く。
買った以上、行かなければ無駄になってしまう。
損をしたくない心理が強ければ強いほど、確実に行けるチケットでないと、取ろうとはしなくなる。
チケットを取る、何かの予約をする、ということに、心理的なハードルが上がってしまうのだ。
結果、腰が重くなる。
そうではなくて、行けるかどうかを決める前に、チケットを買ってしまう。
『行ける権利を買った』と思って。
そうすると、人は不思議と、行けるようにすべてを準備するものだ。
チケットを取る前にはネガティブに働いていた、損をしたくない心理が、今度は逆のベクトルを向き始める。
せっかく取ったチケット、損をしないために、何とか都合をつけて行けるようにすべてを段取りする。
チケットに限らず、なんにしても同じかもしれない。
予定が確定できるから。
結果が分かっているから。
効用がいいと聞いたから。
そういう、後付けの因果関係をいったん外して、
とりあえず、予約してみる。
とりあえず、始めてみる。
とりあえず、やってみる。
そんなふうに動いてみよう。
何かのチケットを取るとき、母のそんな言葉を思い出す。
不確かだからこそ。
考えてみれば、未来において確かなものなど、何もないではないか。
行けるかどうかわからなくても、チケットは取るんだよ。
生前の、そんな母の言葉を思い出しながら。