「きめつのマンガがほしい」
そう言い出したのは、息子だった。
例の大ヒットアニメを熱心に見だしたあたりから、そうなるだろうなと想像していたが、読みたい本があるのは、喜ばしいことだ。
わたしも息子くらいのころは、てんとう虫コミックの「ドラえもん」を擦り切れるほど読んでいたものだ。
その後、「ドラゴンボール」に代わり、そして「ブラックジャック」で手塚治虫先生を知り、「火の鳥」シリーズにどっぷりと嵌ったように覚えている。
あのころは、「マンガなんかより活字を読みなさい」という有形無形のプレッシャーがあったように覚えている。
最近はそんなことも減ったように感じるが、どうなのだろうか。
わたしのように、マンガを読んで育った世代が、親世代になってきたということだろうか。
そのあたり、ファミコンなどのゲームの体験と似ているような気もする。
「たしか、おとうが前に本屋さんに寄ったとき、全巻売り切れてたからなぁ。いまは在庫復活してるんかな」
ぽちぽちと調べてみると、ネットでも在庫が復活していた。
「ネットで頼もうか?」と聞くが、
「だめ!あまぞんとかだと、あしたとかあさってとかになる!今日よめないとダメ!」と怒られてしまった。
消費者までのラストワンマイルを極限まで短縮したamazonの企業努力も、息子にはご不満らしい。
「いま」「ここに」ないとダメなようだ。
せっかちというか、何というか…誰に似たんだろうか。
「じゃあ、近くの本屋さん行くか?でも、在庫がないと面倒だから、電話で聞いてみるか…とりあえず何巻くらいまでほしいの?」
「11かんからだよ!」
「は?そんな中途半端なところでいいの?」
「うん、テレビとかでやってて、10かんまではしってるからいいの」
「へぇ…」
それは、わたしにとって新鮮なおどろきだった。
なにしろ、完璧主義、かつストレングスファインダーの資質第3位「収集心」のわたしだ。
童心に戻って集めているプロ野球チップスのカードも、コレクションに歯抜けなのが気持ちが悪い。
そんなわたしにとって、途中から買うなど、最初から存在しない選択肢だ。
しかし、息子は平然と11巻からでいい、と言う。
10巻までの内容は知ってるから、今は要らないと考える息子にとって、1巻からに執着するわたしは理解不能なのかもしれない。
まるで、違う大陸の住人と異文化コミュニケーションをしているような、そんな感覚だ。
たしかに、息子は「所有する」ということにあまり執着がない。
それは息子個人の資質なのか、時代の流れなのか、分からないが、とかく所有に興味がない。
もちろん、息子も新しいおもちゃを欲しがるし、それを手に入れたときは喜びもするが、それよりも自分が何か楽しい体験をすることの方に、重きを置いているように見える。
だから、プロ野球チップスのカードなんかも、収集することにまったく興味がない。
その違いに驚きつつも、件のマンガの在庫を問い合わせると、近くの書店にあるようなので、息子に急かされて買いにいく。
スーパーに併設された書店だったから、ついでにたい焼きでも買って帰ろうか。
=
ときに、近い存在ほど、 自分の中にない選択肢を示してくれる。
そのどちらが正しいとか、優れているとか、間違っているとか、そういう話でもない。
そこには、ただ、違いがあるだけ。
その違いがあることを、認めるだけ。
わたしは、こうです。
あなたは、そうなんですね。