大嵜直人のブログ

たいせつな何かをなくした心に、ともしびを。

夏、至る日。

夏に至る日、夏至。

一年のなかで一番昼が長く、夜が長い一日。

 

まだ梅雨もまっただ中ではあるが、暦の上では今が夏の盛りだそうだ。

毎年、立秋と同じくらいに違和感を覚える時候ではあるが、実際に日照時間が短くなっていくのは事実のようだ。

 

夏に至ると、そこから陽が出ている時間が短く、弱くなっていくというのは、考えてみると面白いものだ。

みんなが「夏だ」と思っているのは、実は正反対の性質を持っているのかもしれない。

 

夏に至ると、少しずつ少しずつ、陽の力は弱まっていく。

すると、沸騰したやかんの火を消したがごとく、徐々にその熱は冷めていく。

それは、とても自然な形で。

 

熱が冷めるというのは、とても自然な流れだ。

エントロピー増大の法則という物理法則があるように、その流れは不可逆だ。

麦茶を沸騰させたやかんも、意図的に火を付けなければ、もう一度沸騰することはない。

ただ、自然に冷めていくだけだ。

 

そう考えると、夏というのは思われているよりも、少し違ったイメージが浮かんでくる。

熱を与えるのではなくて、実は、冷ましていく側、流れに沿っていく側、流されていく側。

 

夏至の反対の、冬至。

太陽の力が最も弱まり、昼間が一年の中で最も短いころ。

その冬至を過ぎると、太陽はまた少しずつ力を増し、昼間の時間が長くなっていく。

 

熱を与えているのは、実は、冬の方ではないだろうか。

何もないところに、火を付け、熱を与え、エネルギーを満たしていくのは、実は陰の極である、と。

思っていることと、実際のことは、往々にして反対だ。

 

陰陽、あるいは、目に見えるものと見えないもの。

または、男女、と言い換えてもいいのかもしれない。

そのどちらが本体かといえば、陰であり、目に見えないものであり、女性なのだろう。

何も無いところから、有を生むことができるからだ。

 

それは、ものごとの摂理から反するので、バランスを崩しやすい。

あるいは、不安定になったりする。

春先に情緒が不安定になる人が多くなる傾向があるのは、そういったことも関係しているのかもしれない。

 

夏に至る日と、冬に至る日と。

 

もしかしたら、見えているものとは、まったく逆のことが真実なのかもしれない。

 

目に見える実績を出している人が、どれだけ陰で努力しているか。

ありがたい人の縁が、どれだけ周りの好意によって成り立っているか。

心ない言葉の裏には、どれだけの傷と痛みがあるのか。

当たり前の一日が、どれだけ周りの人に支えられているか。

びっくりするような僥倖の裏に、どれだけ先祖の徳があったか。

眩いばかりの輝きを放つ人が、どれだけ自らの深い闇と向き合ってきたか。

 

そんなことを想う、夏至の日。

 

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トラネコのような、まだら模様。