ごく私的なことなのだが、私の生まれは8月12日である。
夏休み真っただ中の時期のため、学校の友だちに祝ってもらえないのが常だった。
「今日誕生日なんだ」
「そうなんだ、おめでとう」
そんな他愛もない会話をする友人を、うらやましく思っていたのを思い出す。
それはさておき、自分はずっと「夏生まれ」だと思っていた。
8月といえば、まだ夏の暑い盛りであるから、その時期に生まれたのだと。
だから、夏のぎらぎらした太陽や、うだるような暑さ、蝉時雨を聴くと、どこかほっとしたような、居心地のよさを感じていた。
夏生まれ。
それは、私の一つのアイデンティティだったように思う。
それが、どうだろう。
先日、人と話している中で、「8月12日は立秋過ぎたころ」というフレーズを聞いて、驚いてしまった。
考えてみれば、立秋は例年8月上旬にやってくる。2021年の今年は、8月7日だ。
実際の暑さはどうあれ、8月12日はもう暦の上では秋なのだ。
私は「夏生まれ」ではなく、「秋生まれ」かもしれない。
それは、ある種の驚きと、ほんのりとした寂しさをもたらす感覚だった。
夏の暑い盛り、銀貨をポケットに突っ込んで、駄菓子屋へジュースを買いに行って。
ようやく着いたら、ポケットに入れたはずの銀貨が、どこを探してもなくなってしまったかのような。
そんな、ある種の寂しさを覚えてしまった。
しかし、考えてみれば、どこか「秋生まれ」というのも納得できるような気もした。
盛りを過ぎ、どこか失われゆく美しさといったものが、私の中にもあるようにも思えた。
不思議なものだ。
別に暦の上での話であり、8月の半ばといえば、現実的にはまだまだ暑い盛りだ。
「夏生まれ」のままでもいいのだろう。
けれど、どこか「秋生まれ」という言葉は、私の中のある種の感覚に触れるような感があった。
今回は、たまたま生まれた月という事象ではあったけれど。
ときに、確固たるものだと思っていた自己のアイデンティティは、脆く、そして儚く消え去る。
たとえば所属する組織や肩書、あるいは役割といったものは、その最たるものだろう。
会社を離れみると、それまで付き合っていた人間関係ががらりと変わってしまったり。
職位が上がると、周りの扱いが変わったり、あるいはその逆も然りだったり。
あるいは、家族の中での役割が変わっていったり。
そうしたときに、はて、いままでの自分は何だったのだろうか?と首を傾げたくなる。
いままでの自分がかりそめで、ほんとうの自分がある、というわけでもない。
ただ、その時々に立ち現れる自己があるだけだ。
それは、季節の移ろいと似ているのかもしれない。
あるときは、麗らかな風が吹き。
あるときは、アスファルトの上を陽炎がゆらめき。
あるときは、木々が黄金か深紅に染まり。
あるときは、朝の空気は凛として張り詰めて。
その移り変わりの中に、「ほんとうの季節」などといったものがあるのだろうか。
おそらくは、そうではないのだろう。
目に映るその景色の一つ一つが、「ほんとうの季節」なのだ。
ただ、その移ろいそのものは、不変であると言えるかもしれない。
日々現れては消えてゆく、自己という不思議な存在。
アイデンティティもまた、変わりゆき、移ろいゆくものだ。
自分は夏生まれだと思っていたのに、実は秋生まれであることに気づいたり。
自分はやさしい人だと思っていたのに、実は冷酷な自分が眠っていることに気づいたり。
いつも理詰めで考えるのに、最後の最後は直感で決めていることに気づいたり。
日々移ろいゆく景色と同じように、自己のアイデンティティもまた、移ろいゆく。
どれがほんとうの自分というわけでもなく。
その移ろいゆくことこそが、唯一不変なのだろう。