時候は、「春分」を過ぎて「清明」に入りました。
天地万物が清らかで、明るく輝く時期。
「清明」という言葉自体は、「清浄明潔」という熟語の略だそうです。
春の日差しはさわやかさを増し、ぼんやりとしていた空気は徐々に澄んできます。
ここから、5月の下旬の「小満」のあたりまで、心地のよい季節になりますね。
陽気に誘われて、どこかへお出かけをしたくなる時期でもありますね。
そんな、一年で最も気持ちのいいこの時期ですが、以前の私はどこか苦手な季節でもありました。
苦手、というと少し語弊があるかもしれません。
こんな気持ちのいい季節に、何か苦手なことがあるわけではありません。
そうではなくて、この季節が来ると、どこか自分が置いていかれたような、そんな感じを受けるのでした。
春には、悲しい記憶があります。
以前の私は、その悲しい記憶を感じ尽くさないまま、季節だけが流れていきました。
自分が、どこか冷凍保存されたような、あるいは自分だけが、孤島に取り残されたような。
そんな感じがしていたのです。
春が訪れると、悲しい記憶もまた、思い出す。
その春が通り過ぎ、清明を迎えて、気持ちのよい季節に移ろいでいったとしても。
私だけが、その春のなかにいて、置いていかれたような気がしていました。
どこにも行けない私と、過ぎゆく春と。
そんな感じがしていたことを、思い出します。
きっと、立ち止まっていたのは、私の心だったのでしょう。
深い悲しみと寂しさ。
そういった感情を感じ尽くすことが怖くて、心を閉ざしてしまっていた。
その閉ざしてしまっていた私自身を、どこにも行けないと感じていたのかもしれません。
カウンセリングを受けて。
自分の感情と向き合うことをはじめて、置いていかれたと感じた私は、少しずつ歩むことを再開したような気がします。
春が訪れると、思い出すこともあります。
けれども、移ろいゆくその季節を、愛でることもできるようにもなりました。
ほんとうのところは、歩いていくことも、なかったのかもしれません。
だって、春は、まためぐってくるのですから。
ほんとうのとのころは、置いていかれることも、ないのかもしれません。
ただ、そこにいる。
それでいて、過ぎゆく春を、眺めている私がいます。
ただ、それだけなのかもしれません。
季節は清明を迎え、めぐっていきます。
それは、誰を置いていくわけでもなく。
ただ、流れていくだけ。
誰も置いていかないし、誰も置いていかれることもない。
ただ、私は、ここにいるのです。
あなたもまた、そこにいるのです。