大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

清明のころ、どこか置いていかれたような気がした、以前の私のおはなし。

時候は、「春分」を過ぎて「清明」に入りました。

天地万物が清らかで、明るく輝く時期。

「清明」という言葉自体は、「清浄明潔」という熟語の略だそうです。

春の日差しはさわやかさを増し、ぼんやりとしていた空気は徐々に澄んできます。

ここから、5月の下旬の「小満」のあたりまで、心地のよい季節になりますね。

陽気に誘われて、どこかへお出かけをしたくなる時期でもありますね。

 

そんな、一年で最も気持ちのいいこの時期ですが、以前の私はどこか苦手な季節でもありました。

苦手、というと少し語弊があるかもしれません。

こんな気持ちのいい季節に、何か苦手なことがあるわけではありません。

そうではなくて、この季節が来ると、どこか自分が置いていかれたような、そんな感じを受けるのでした。

春には、悲しい記憶があります。

以前の私は、その悲しい記憶を感じ尽くさないまま、季節だけが流れていきました。

自分が、どこか冷凍保存されたような、あるいは自分だけが、孤島に取り残されたような。

そんな感じがしていたのです。

春が訪れると、悲しい記憶もまた、思い出す。

その春が通り過ぎ、清明を迎えて、気持ちのよい季節に移ろいでいったとしても。

私だけが、その春のなかにいて、置いていかれたような気がしていました。

どこにも行けない私と、過ぎゆく春と。

そんな感じがしていたことを、思い出します。

きっと、立ち止まっていたのは、私の心だったのでしょう。

深い悲しみと寂しさ。

そういった感情を感じ尽くすことが怖くて、心を閉ざしてしまっていた。

その閉ざしてしまっていた私自身を、どこにも行けないと感じていたのかもしれません。

 

カウンセリングを受けて。

自分の感情と向き合うことをはじめて、置いていかれたと感じた私は、少しずつ歩むことを再開したような気がします。

春が訪れると、思い出すこともあります。

けれども、移ろいゆくその季節を、愛でることもできるようにもなりました。

 

ほんとうのところは、歩いていくことも、なかったのかもしれません。

だって、春は、まためぐってくるのですから。

ほんとうのとのころは、置いていかれることも、ないのかもしれません。

ただ、そこにいる。

それでいて、過ぎゆく春を、眺めている私がいます。

ただ、それだけなのかもしれません。

季節は清明を迎え、めぐっていきます。

それは、誰を置いていくわけでもなく。

ただ、流れていくだけ。

誰も置いていかないし、誰も置いていかれることもない。

ただ、私は、ここにいるのです。

あなたもまた、そこにいるのです。