いくつになっても、覚えているだろうな、という感覚がある。
校舎で筋トレになった雨の日の部活の、まとわりつくような湿気だったり、
その手に、はじめて触れた温もりであったり、
木枯らしの吹く、何気ない冬の日の空の音であったり、
あるいはその地に降り立ったとき、ふっと吹いた風の色だったりする。
あのときの湿気だ。
あのときの温もりだ。
あのときの音だ。あのときの、色だ。
それらに触れたとき、どこかそのときの、過去の自分とつながるようだ。
そのとき、過去の自分を受け入れ、ゆるせているような気がする。
どんな自分でも、ただ、そこにいた。
どんなに傷ついていても、変わらずに、いた。
どんな私でも、そこにいた。
ただ、そこにいるという事実を認めることが、もっとも単純で、この上ないゆるしなのかもしれない。
あのとき、あなたはそこにいた。
街頭の人混みのなか、信号機が点滅しだす。
横断歩道を渡る皆の足音が、急ぎ出す。
ふっと振り返ると、身じろぎもせず、あなたはそこに立っている。
たくさんの人が周りを流れていくのに、まるでそこだけが切り取られたように。
あるいは、結界が張られているように、動かない。
ただ、あなたはそこに立っている。
まっすぐに、その瞳は歩道の先を見据えている。
信号機の音楽が、止まる。
雑踏の音が止まり、我に返って足早に歩道を渡り切る。
ほっと一息を着くと同時に、車が流れる音がする。
もう一度振り返ると、あなたの姿はそこにはなかった。
ただ、そこにいた。
それでも、そこにいた。
その感覚に触れたとき、ただ過去の自分を思い出す。
そして、そこにいたことを、思い出すことができる。
そこにいた事実を、認めることができる。
そんな空の音、風の色が、ある。
あのとき、そこにいた。
あのとき、そこにいた。
わたしも、あなたも、そこにいた。