風の冷たさが、暖かさを含むようになり。
その暖かさに、匂いが感じられるようになると、春も本番が近づいているようです。
冬の間は、香りというより、凍てつく寒さのみだったのが、春はいろんな香りを運んでくるようです。
時候は「啓蟄」。
冬ごもりをしていた虫や小動物たちが、目覚めて土のなかから出てくるころ。
七十二候では「奈虫化蝶(なむしちょうとなる)」、冬を越したサナギが、蝶に変化して春を訪れを喜ぶころです。
いろんな生物の活動が、その香りを運んでくるのでしょうか。
外を歩いていると、鼻腔をくすぐる微かな香りに、春を感じるのです。
とはいえ、この季節、猛威を振るうスギ花粉に、だいぶやられてしまうのですが笑
春の訪れとともに、花を咲かせる植物もまた、香りを発するのでしょうか。
白く小さな花を咲かせる、雪柳。
寒くなっては、暖かくなり。
暖かくなっては、寒さが戻り。
その繰り返しの時期に、可憐な雪を見るのは、実に趣き深いものです。
私の大好きな木蓮も木も、その花を見事に咲かせていました。
最近のスマートフォンはすごいもので、「過去のこの日」的な機能で、同じ日に撮った写真を教えてくれたりします。
去年の今日も、同じ木蓮の花は、満開を迎えていたことを、その機能が教えてくれました。
誰に教えてもらうでもなく。
ただ時が満ちると、一斉にその花弁を開く。
ほんの数週間前は、固い蕾に覆われていた無数のそれは、いま白き炎のようになり、冬の暗がりを照らしているようです。
見渡すばかりの、木蓮の花。
その一つに、顔を近づけて、その香りを確かめてみます。
一年ぶりに感じる、その香り。
木蓮は、太古の昔から、その姿を変えていないと聞きます。
私たちの祖先の、そのまた祖先の、私たちとは姿かたちの異なる生きものたちも、この香りを嗅いだのでしょうか。
それにしても、香りというのは、五感のなかで最も言語化が難しいものです。
視覚や味覚、触覚、聴覚は、なんらかの言語表現があります。
眩しいほどに、陽の光を反射する湖面、だとか。
やさしい甘さのアイスクリーム、だとか。
シルクのような肌触り、だとか。
遠くから聞こえる、お囃子の音、だとか。
しかし、香り、嗅覚だけは、表現できない気がします。
ただ、「いい香り」などとしか、表現のしようがないんですよね。
もしくは、「バラの香り」とか、もうそのものを明示するしか、ないような。
これは、私が嗅覚が鈍いことだけが原因では、ないような気がします。
嗅覚とは、人のなかで最も原始的な感覚、と聞いたことがあります。
だから、アロマテラピーであるとか、私たちの本能的な部分に働きかけるものがあるのでしょう。
この花弁と、そのなかにある芯の形。
悠久の時の流れのなかでも、変わらなかった形なのでしょうか。
この香りと、また今年も出会えたことを嬉しく思いながら。
しばらくの間、白き灯篭たちを、見上げていました。