大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

春分の日、半分の日。喜びも、悲しみも、等しく。

今日は春分の日ですね。

昼と夜が、半分ずつになる日。

12月の冬至で夜の時間が最も短くなり、そこから反転して徐々に徐々に昼の長さが伸びてきて、ちょうど半分になったのが今日。

自然をたたえ、生きとし生けるものを慈しむ日ともされます。

陰も、陽も半分ずつ。

それを、教えてくれる日でもあるようです。

春分の日の風景を感じたくて、自宅の周辺を歩いてみると。

数日前には、あんなにも満開で咲き誇っていた木蓮は、もう散り際を迎えていました。

空を白に染めていた花びらは、いまは地面に散らばっていました。

桜の散り方の潔さ、美しさはよく言われるところですが。

木蓮もまた、あっという間に散ってしまうようです。

残った花にも、茶色い染みが広がっていました。

高貴なあの香りも、もうどこにもなく。

一年のうちで、あの見事な花を見られるのは、ほんとに一瞬なんだなと、あらためて思います。

いえ、花のない時間があればこその、美しさなのでしょうか。

木蓮と入れ替わるように、桜は少しずつ咲き始めていました。

今週末には、満開に近くなるでしょうか。

 

春分の日、半分の日。

桜を眺めながら。

寺山修司の言葉を、思い出していました。

競馬を愛した寺山修司に、友人が「トータルすると、勝っていますか?負けていますか?」と聞いたことがあったそうです。

それに対する寺山の返答が秀逸で。

「芝居見に行ってトータルして笑ってますか?泣いてますか?って聞かないでしょう?損したくて行くときもあるんですよ」

芝居、と寺山は言っているけれども、それを人生と言い換えても、同じような気がします。

人生でトータルして、泣いているか?笑っているか?

なんていう質問は、あまり意味がないようにも思うからです。

苦しいときがある。楽しさのなかに生きるときもある。

それを、トータルすることにも意味がないのかもしれません。

もちろん、苦しかったり、悲しかったりした経験が、あとになってみて活きることは、いくらでもあります。

その反対に、喜びのなかにいた過去が切なくて、いまの自分が苦しくなることもあるかもしれません。

それは、「いま」わかることではありません。

私にできるのは、ただただ、「いま」この瞬間を味わうこと、それだけだと思うのです。

悲しい時には、ただひたすらに悲しむ。

喜ぶ時には、心の底から喜ぶ。

その積み重ねが、生きることを豊かにしていくように思います。

そして、振り返ってみれば。

喜びも、悲しみも。

等しく、自分の人生を彩る季節なのだと、思うのかもしれません。

そんなことを、思うのです。

春分の日、半分の日。

あなたさまの春分が、よき日でありますよう。