欲しかった形で愛を与えられなかった。
そんな経験があったとき、それを解釈する2つの視点をご紹介します。
1.受けとれる愛の総量を増やすには
先日の記事では、受けとれる愛の総量を増やすには、というテーマでお伝えしました。
受けとれる愛の総量を増やすには、愛についての観念を手放していくこと。 - 大嵜直人のブログ
ごく簡単に言ってしまうと、
「愛についての定義が狭いと、受けとれるものも受けとれなくなってしまうんじゃないか?」
「だから、その定義を広げたら、もっと多くの愛が受け取れるよね」
というお話です。
はい、先日の記事が、わずか数行にまとまってしまいました。
それを一記事にするんですから、我ながら話が長いですね笑
愛についての定義は、人それぞれに違います。
目線を合わせることが、愛だと感じる人。
遠くで見守ることが、愛だと定義する人。
まめに連絡を寄越すことが、愛だと思っている人。
それぞれに正しく、どれも間違っているわけではありません。
けれども、「これだけが愛だ」とあまりに強く思ってしまうと、「それ以外の部分は愛じゃない」と感じてしまう可能性があるわけです。
もし、自分の「愛の定義」から外れた形で、愛を贈られたとしても、「これは愛じゃない」とばかりに、受け取り拒否してしまうような。
それは、自分自身にとっても、相手にとっても、寂しく、また不幸なことですよね。
そうならないために、自分が持っている「愛の定義」あるいは「愛の観念」を具体的にして、それ以外の愛の形を想像できるようになれるように、というのが先日の記事のテーマでした。
具体的には、自分の持っている愛の観念に感謝しながら、それを手放していく、そんなプロセスをご紹介しました。
今日は、この「愛の観念、定義」について、もう少し深く見てみたいと思います。
2.愛についての観念と、そのルーツ
自分にとっての、「愛の観念」。
昨日の記事では、それを書き出してみるワークをご紹介しました。
この観念は、自分という存在を考える上で、とても大切な部分になります。
自分のアイデンティティの、根源的な部分といえるでしょうか。
その観念には、必ずルーツがあります。
私たちが、愛された記憶。
それが、「愛の観念」をつくっています。
多くの場合、それは生まれた家庭や家族のなかで、つくられるものです。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
たくさんそう伝えてもらった人は、誰かに言葉で愛を伝えたい人になるのでしょう。
あるいは、自分の話をたくさん聞いてもらった人は、相手の話を聞くことで、愛そうとするようになるのでしょう。
私たちは、自分が愛されたように、誰かを愛そうとします。
自分が考える愛の観念、定義には、必ず愛された記憶が結びついています。
それを思いだすことは、自分自身の自己受容、あるいは自己愛を深めることができます。
さて、ここで話が終わるなら、とても綺麗なのですが、そうでもないでんすよね。
「そんな愛なんて、もらってねーぞ、コノヤロー!」と中指立てるパターンです。
はい、誰でもそう思うことって、ありますよね笑
自分にとっては、一緒にいることが愛の形だと思っていたのに、両親は共働きで忙しくて、あまり家にいなかったり。
やさしくて安心できることが愛だと思うのに、いつも厳しくしつけられていたり。
これ、別に愛されていない、というわけではないんですよね。
親は親なりに考えて、子どものためを思って、そうしてきたわけですから。
経済的に不自由をさせないために、寂しいけれど、がんばって働くことが、愛の形だ。
大人になって、恥ずかしい思いをしないために、心を鬼にすることが、愛の形だ。
そう思って、しているのでしょうから。
言ってみれば、自分にとってほしい愛の形と、与えられた愛の形が、一致しなかった、ということなのでしょう。
じゃあ、それが不幸なのか?と言われると、そうでもないんです。
3.愛のすれ違いの、ふたつの解釈
自分にとってほしい愛の形と、与えられた愛の形が、一致しないとき。
そう感じるときに、お伝えしたいことが2つあります。
まず一つ目は、「それも愛」だと認識すること。
「認識だけ」することがポイントで、それを無理矢理に受けとる必要は、ないんですよね。
「愛だから」といって、せっかく相手が贈ってくれたからといって、自分が我慢してまで、受けとることはないわけです。
もちろん、これは小さい子どもには、できません。
けれども、少なくとも、この記事を読んでいるあなたは、幼い子どもではないと思います。
「せっかくだから、今回は受けとっておこう」としてもいいですし、
「ごめんなさい、いまの私には、ちょっと受けとれないです」としてもいいんです。
自分で、選んでいいんです。
もちろん、昨日の記事でもお伝えした通り、受けとれる愛の総量を増やした方が、人生は豊かになりますから、受けとれるなら受けとった方が、いいのでしょうけれどね。
ただ、無理をするこもないですし、「いまの自分」が決めていいんです。
「それも愛だよね」と認識だけはしておくこと。
これが、一つ目の点です。
もう一つは、少し深い視点です。
「なぜ、あなたが欲しかった愛は、与えられなかったのか?」という問いかけです。
これ、ゆっくりと考えてみる価値があるテーマです。
もちろん、正解も何も、ありません。
ただ、自分がしっくりくる答えが、真実に近いのだと思います。
あなたは、なぜだと思いますか?
神さまが、意地悪だったから?
自分には、何かが足りなかったから?
前世で、ずいぶんと悪行を重ねてきたから?笑
なぜでしょうね。
わたしが思う一つの答えをお伝えして、今日の記事を終わりますね。
なぜ、あなたが欲しかった愛が、与えられなかったのか。
それは、その欲しかった愛が、あなたの与えられる最上の愛の形だからです。
「え?欲しかったのに、与えないといけないの?」と思われるかもしれません。
でも、そうなんです。
その形で愛を与えたとき、あなたはとても満たされると思います。
もちろん、そこには、「なぜもらってないのに!」という痛みや妬みといった層を突き抜けて、与えようとする強い意志が必要になります。
けれども、その形で愛を与えたとき、あなたはこの上なく満たされると私は思うのです。
ずっと欲しかったものは、自分が与えられる最上のものだからです。
きっと、その愛を求めている人が、あなたの周りにいらっしゃるのでは、ないでしょうか。
今日は、欲しかった形で愛を与えられなかったことを、どう解釈するか、というテーマでお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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