「手放し」が進むと、もの寂しさを感じたりすることがあります。
それは決して悪いことではなく、むしろとても順調な兆候であるといえます。
その寂しさを感じる分だけ、何か新しいものが入ってこようとしているのかもしれません。
1.愛を持ったまま、距離を空ける「手放し」
昨日の記事では、「手放し」のイメージについてお伝えしました。
「手放す」とは、愛を持ったまま、距離を開けるイメージ。 - 大嵜直人のブログ
何かに執着しているとき、私たちは選択肢を失います。
あまりに心理的な距離を詰め過ぎて、その人やものごとしか、目に入らなくなっているようなイメージでしょうか。
しかし、選択肢が無い、選べないというのは、私たちにとって苦しいものです。
この執着を和らげてくれるのが、「手放し」です。
その対象を、手放す。
「手放し」とは、その対象を諦めることでもなく、忘れることでもなく、捨て去ることでもありません。
ぎゅっと握りしめていた手を、そっと開くイメージでしょうか。
それはまた、愛を持ったまま、距離を空けるということでもあります
距離が開くことによって、全体を見ることができるようになります。
その上で、なおその対象を選ぶのか、それとも、別の選択をするのか。
「手放し」とは、私たちの手に、その選択権があることに気づかせてくれます。
もちろんその選択権は、相手も同じように持っているものです。
2.「手放し」が進むと、もの寂しくなる?
さて、この「手放し」ですが、そのプロセスのなかにおいて、「もの寂しくなる」ということがよくあります。
私自身も、「手放し」に取り組んでいたときに感じましたし、いろんな方のお話を伺っていても、よく出てくるものです。
「手放す」と、寂しさを感じることがある。
その寂しさというのは、強烈な渇きのような孤独感、寂しさというものでもなく、ぼんやりとした輪郭のものです。
たとえるならば、ずっと噛んでいたガムが、口のなかから無くなった寂しさと似ているかもしれません。
ちょっと表現はアレかもしれませんが笑
それに近いもので、小さいころ、私は着古したパジャマがないと寝れないものでした。
そのぼろぼろのパジャマの襟の部分を、いつも寝るときに指で触っていました。
その感触がないと、何か落ち着かないものでした。
けれども、小学校に入り、なんだか恥ずかしいと感じるようになり、思い切ってそのパジャマと寝ることをやめてみたのですね。
そのやめた当初は、何か自分の置き場のない感じというか、どこか落ち着かない感じというか、そういったものを感じていました。
手が寂しい、というか。
「手放す」と感じる寂しさは、どこかそんな感じに似ているように思うのです。
その寂しさというのは、決して悪いものではなく、「手放し」が進んでいるからこそ、感じるものです。
寂しさを感じる分だけ、順調な兆候であるといえます。
だから、その寂しさをどうこうしようとする必要も、ありません。
ただただ、その寂しさをぼんやりと感じていれば、いいのだと思います。
その寂しさを感じる分だけ、新しい何かが入ってくるものですから。
3.行っては戻り、「手放し」は進んでいくもの
ときに「寂しさ」を感じたりもする、「手放し」のプロセス。
どうしても、私たちは「早く手放して、次のステップにいきたい!」と思ってしまうものですが、なかなかそうはいかないのが「手放し」です。
一朝一夕に手放すことなど、なかなか難しいものです。
寂しさを感じてプロセスが進んだと思ったり、穏やかな心持ちになったり、「手放せた」と思ったとしても、また執着がぶり返したり。
行っては戻り、戻っては進み。
そんな風にして、「手放し」は進んでいくものです。
だから、何かを手放そうとしたときに、あせらなくても大丈夫です。
また別で記事にしようと思いますが、「手放し」に重要なことの一つは、「『手放す』と決める」ことです。
そこさえ決めることができれば、プロセスは流れていくものです。
もちろん、川の流れのように紆余曲折したり、この空のように心もようも日々変わっていくかもしれません。
けれども、どんな川の流れもいつかは大海に流れゆくように、「手放し」も進んでいきます。
執着がぶり返しても、どうかあせらず、プロセスを信頼してみてくださいね。
今日は、「手放し」のプロセスで出てくる寂しさというテーマについて、お伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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