「役割」を演じていると、周りの人に与えられるけれど、受け取れない、という状態に陥ります。
しかし、「役割」自体もまた、自分自身の大切な一部です。
そんな「役割」の心理と、その付きあい方について、お伝えします。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.あなたが犠牲のなかにいるとき、「役割」だけが報酬を受けとる
「役割」とは、与えるけれども受けとれないというものです。
「役割」のほうは報酬を得ることができますが、あなた本人には疲労感とぼろぼろになった感じが残るだけです。
あなたがその役割によって証明しようとしているものは、たぶんあなたにとって、もはや真実になっているのではないでしょうか。
なぜ、いまさらそれを証明する必要があるのでしょう。
あなたがしていることのごほうびをすべて受けとってみましょう。
パートナー、家族、仕事、あなたの人生、呼吸している空気、食べ物、あなたがすることのすべてを楽しみましょう。
与えることで自然に得られる気持ちよさを味わってください。
正しいことを正当な理由ですることをみずから選択しましょう。
つまり「そうするべき」だからといった理由ではなく、あなたが「それを選択した」からするのです。
選択したことがあなたのコミットメントになります。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.230
2.「役割」、あるいはペルソナ、仮面
今日のテーマは「役割」です。
「役割」とは、与えられるけれど、受け取れない、というしんどい性質があります。
与えられるけれど、受けとれない「役割」の辛さ
自分自身に対しての評価が低いと、それを埋めるために、人は「役割」の仮面をつけます。
よくあるのが、「私なんかは、もっと頑張らないといけない」と必要以上にハードワークにいそしんだり、
「私なんかが親で申し訳ない」とことさらに「いい親」になろうとしたり。
「仕事をがんばる人」や「よくできた親」といった「役割」を、演じるわけです。
傍から見ると、やっていること自体はすばらしいことなんです。
仕事にがんばって取り組んで、周りのみんなを助けたりもしている。
家事に仕事に忙しい中で、子どもとの時間を取ろうとしていたり。
しかし、どれだけすばらしいことに見えても、それをやっている本人には充実感や喜びはなく、満たされない想いがうずまいています。
「これじゃ、足りない、もっと、もっと」
そんなふうに感じたりするものです。
「役割」のほうは報酬を得ることができますが、あなた本人には疲労感とぼろぼろになった感じが残るだけです。
引用文のこの一文の通りです。
やっているすばらしいことに対して、周りは認めてくれたり、ねぎらってくれたりするわけです。
しかし、そうした報酬は、「自分が演じている役割」が全部持っていってしまう感じがするのです。
ちがう、そうじゃない。
ほんと、やめて。
私は、そんなにすごくない。
すばらしくもない。
みんな、何かかんちがいしてる。
ほんと、やめて。
「役割」がしたことを褒められると、そんな感じがするものです。
この感覚、私はめちゃくちゃ持っていました。
生粋の受け取り下手とも言えますが笑
そうじゃない、私なんだけど、私じゃない…と。
「役割」とは、与えられるけれど、受け取れない。
そんなしんどい状態といえそうです。
「役割」があってもなくても、自分
これは、ペルソナという見方と似ています。
私たちは生きる中で、「どうやったら愛されるだろう?」というテーマを研究します。
その研究にもとづき、「こうやったら愛されるだろう」と思われる自分になろうとします。
これが、ペルソナとよばれたりします。
しかし、パートナーシップなんかでは顕著ですが、このつくったペルソナを愛されると、どこか居心地が悪いんですよね。
パートナーを、だましているみたいで。
ほんとうのわたしは、もっと怠惰で、意地が悪くて、嫉妬深くて、ちっぽけで、どうしようもないんです。
そう思えば思うほどに、その自分を相手の前で出せなくなります。
けれど、その素の自分を見てほしい、認めてほしいという欲求もあり。
その綱引きに、苦しんだりすることがあります。
人の心って、不思議ですよね。
こう書くと、「ほんとうの自分を受け入れようぜ!」という話の展開になりそうですよね笑
そっちの方向でもいいのですが、「役割」もまた、自分自身の大切な一部だと私は思うわけです。
だって、「役割」があったからこそ、喜んでくれた人が、いたわけですから。
周りに与えられた、何かがあったわけですから。
その「役割」の自分も、「役割」がない素の自分も。
どちらも、大切な自分の一部。
そんな風に考えられたら、ステキだなと思うのです。
3.自分で選ぶ、ということ
選べるようになると、肩の荷が下りる
「役割」を演じているときは、選択肢がありません。
「仕事をがんばる人」、「よくできた父親」といった「役割」を、いつも演じないといけないわけですから。
それを、「演じても、演じなくてもいい」という状態にできると、ずいぶんと肩の力が下りるように思います。
これをやるとしんどいけれど、みんなが喜んでくれるから、がんばろう。
みんなのためにはなるけれど、ちょっといましんどいから、やめておこう。
そういった選択ができると、すごく楽になります。
我慢をずっとしてきた人(我慢する「役割」を演じてきた人)が、それに気づいたとして。
そこから、いきなり「我慢はもう絶対にしない!」というのもまた、それはそれでしんどいと思うのですよね。
だって、ずっとつきあってきた、自分の大切な「役割」なわけですから。
そしてそれは、「どうやったら愛されるか?」をずっと考えた末に、身に着けた、自分の大切な一部なわけですから。
「役割」しかり、ペルソナしかり。
それらは、その人のアイデンティティと深くかかわっているものです。
だから、片方に振れた天秤を、ちょうど真ん中でバランスを取るような。
つまり「そうするべき」だからといった理由ではなく、あなたが「それを選択した」からするのです。
まさに、引用文の通りですよね。
「そうするべき」ではなく、「自分がしたいから、そうする」へ。
「役割」をやめるとは、そんなイメージといえるのでしょう。
今日は、「役割」の心理について、お伝えしました。
今日も、ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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