「罪悪感」を持っていると、「攻撃する」か「引きこもる」かという、自分を幸せから遠ざける言動を取ってしまうものです。
「罪」の語源は単に「ミス」を指すように、「そこから何を学ぶのか?」という視点を持つと、「罪悪感」の泥沼から抜け出しやすくなります。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.罪は罰を主張するが、ミスは訂正を求めるだけ
罪悪感を感じたときは、いやな気持から逃れるために自分自身への罰をつくりだすものです。
そして、自分を罰したあとしばらくは、自分のことをまあまあだと感じるのです。
けれども、自分を罰することはいっそう気分を悪くし、罪深いという自己概念(それは真実ではないのですが)を強化したり増長させます。
気分が悪いと引きこもりや攻撃性を使ってわざと悪くふるまいます。
これがまた新たな攻撃を生み、罪悪感の悪循環がはてしなくつづくのです。
これはしばしば子供の行動に見られます。
自分のことをあまりにも悪いと感じると、その子はなんらかのかたちで罰を受けるような行動をせざるをえないのです。
いったん罰を受ければ、子供は落ちついておだやかになります。
ところが子供を罰するのは、戦線で勝っても戦争には負けるようなものです。
子供に対するこうした行動は、あなたがやめさせようとしていることを、子供のなかにたたきこんでしまうことになるからです。
同じようにして、大人も自分を罰するためにさまざまなことを引き寄せます。
失敗、経済的困難、病気、事故、不幸な出来事などが、逆に自分がなくそうとしている罪悪感を強化させることになってしまうのです。
罪悪感を感じると、自分を責めてしまいます。
自分が道徳や宗教上の罪をおかしたときに、罪悪感と懲罰によって自分を責めるのとまったく同じことです。
つまりその場で知恵や教訓を学ぼうとせずに、罪と罪悪感をくっつけてしまうのです。
しかし、もともと「罪(shin)」という言葉は、古代ギリシャのアーチェリーの用語で「的をはずす」という意味で、単にミスのことだったのです。
そのことに気づいたなら、そこからレッスンを学びとり、ミスを訂正し、罪悪感を手放すことができます。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.427,428
2.「罪悪感」の心理
今日のテーマは、「罪悪感」でしょうか。
まるで甲子園常連校のように、何度も何度も出てきているテーマですが、また今日も少し違った視点から見ていきたいと思います。
「罪悪感」の心理と7つの種類
「罪悪感」とは、文字通り「罪を犯した」「悪いことをした」という意識です。
そして、その罪を償うために、自分に対して「罰」を与えようとしてしまう心理です。
罪人は、幸せになってもいけませんし、自由を謳歌してはいけません。
それゆえ、幸せにしない環境に自分の身を置いたり、自分を牢獄に閉じ込めるように引きこもったりします。
それは、周りの人に「この人は罪人ですから、そのように扱ってください」と言い回っているようなものです。
はい、なかなかにハードモード、修羅モードの人生製造機が、「罪悪感」といえます。
そうした「罪悪感」は、大きく分けて7つの種類があります。
- 誰かを傷つけてしまった/壊してしまった
- 助けられなかった/役に立てなかった
- なにもしていない/見捨ててしまった
- (周りと比べて)自分が恵まれている
- 自分は毒である/穢れている
- 親やパートナーから受け継いだもの
- その他(地域社会、宗教、そのほか)
これらの体験や出来事により、私たちは「罪悪感」を抱くようになります。
はい、誰でも経験することだと思います。
こうした出来事をすべて避けて生きようとしても、それはなかなか難しいものです。
それゆえ、「罪悪感」とは誰もが持っている感情といえます。
「罪悪感」を持たないようにしよう、無くそうと考えるよりは、「うまく付き合う」方法を考える方が、現実的といえるのでしょう。
「罪悪感」を抱いたときの二つの反応
さて、そうした「罪悪感」を抱くと、私たちは二つの反応を示します。
その二つとは、「攻撃する」か「引きこもる」か、です。
「攻撃する」は、不機嫌なふるまいをしたり、正論で相手を説き伏せようとしたり、あるいは相手を傷つけるような言動を取ったりする選択です。
一方、「引きこもる」とは、相手とのコミュニケーションを遮断し、自分一人の世界に引きこもろうとする選択です。
私は、完全に後者の「引きこもる」を選択する場合が多いです笑
人それぞれ、「罪悪感」を感じたときの反応の出方というのものが、あるのでしょう。
さて、この二つの反応のどちらも、「罪悪感」がもたらす、自分が罪深く悪い人間であるという、イヤーな感情から逃れるためにする行動です。
しかし、そのどちらの行動を取ったとしても、「罪悪感」から逃れるどころか、自分は罪深いという概念をますます強くしてしまうものです。
言うまでもないことですが、「攻撃する」を選択すると、先に挙げた「罪悪感」の種類の1番目の「誰かを傷つけてしまった」という「罪悪感」を抱きます。
一方で、「引きこもる」を選択すると、自分からつながりを切ってしまうわけですから、3番目の「見捨ててしまった」という「罪悪感」を抱いてしまいます。
いわば「罪悪感スパイラル」とでも呼べるような悪循環に入り、どんどん「罪悪感」を強めていってしまいます。
それだけ、恐ろしい「罪悪感」の反応ですが、見方を変えると、そうした行動をしていたときは「罪悪感」を感じている、と自覚するチャンスといえます。
攻撃したくなったり、引きこもりたくなったりしたときは、「私は何に罪悪感を感じているのだろう」と問いかけることで、「罪悪感」にまみれる前に、冷静さを取り戻すことができます。
「あぁ、あのできごとに、罪悪感を感じているんだな」
自分の心を、そんなふうに理解・共感することができると、不思議と心は落ち着きを取り戻します。
そして、それ以上「罪悪感」を強めるような行動を取らなくても済むようになります。
3.「罪悪感」とは、勘違い
「罪」の語源は、「ミス」だった
さて、そうした「罪悪感」ですが、今日の引用文は非常に興味深いことを教えてくれています。
しかし、もともと「罪(shin)」という言葉は、古代ギリシャのアーチェリーの用語で「的をはずす」という意味で、単にミスのことだったのです。
言葉の語源というのは面白いもので、そこからものごとの本質が見えてくることがあります。
さて、「罪」の語源である"shin"という語が、単にミスを表すことだったのは、非常に興味深いものです。
私たちが、いま認識している意味ではなく、単に「ミス」を指すのが、「罪」という語だった。
「罪」と「ミス」はちがいますよね。
「罪」と聞くと、非常にどんよりして重く、つぐなわなくてはならないもののニュアンスです。
一方で「ミス」と聞くと、もっと軽いニュアンスになります。
私たちはどこかで、「ミス」を「罪」という意味に、勘違いをしてきたのかもしれません。
「ミス」は訂正をすればいいだけ
よく言われることですが、「ミス」や失敗は、財産です。
そこから学ぶことができるからです。
つまりその場で知恵や教訓を学ぼうとせずに、罪と罪悪感をくっつけてしまうのです。
自分を責めたり罰したりすることが必要なのではなく、そこから何を学ぶか、という視点こそが真に求められるのでしょう。
「どんなできごとも、ニュートラル」とは、心の世界でよく言われる格言です。
そのできごとに、さまざまな色付けをするのが、私たち人です。
重苦しい「罪」の色を塗りたくるのか。
それとも、「ミス」として、新しい学びの色をつけるのか。
すべては、私たちの意識に委ねられているようです。
もちろん、だからといって、「罪悪感」をまったく感じないようにすることは、難しいかもしれません。
先ほども書いたように、「罪悪感」とは、非常にありふれた感情なのですから。
ただ、それを感じるたびに、「これは勘違いだ」「自分を罰するより、ここから何を学ぶかの方が大切だ」と言い聞かせることはできると思うのです。
それが、先に書いた、私たちにとってありふれた感情である「罪悪感」との付き合い方のひとつなのでしょう。
今日は、「罪悪感」をテーマに、いくつかの視点をお伝えしました。
「罪悪感の7つの種類」などは、私の師匠の著作「いつも自分のせいにする罪悪感がすーっと消えてなくなる本」(ディスカバー・トゥエンティワン)」を参照しました。
もっと「罪悪感」について学びたい、と思われる方は、ぜひお手に取ってみてください。
↓私の書評も、ご参考になりましたら幸いです。
書評:根本裕幸さん著「いつも自分のせいにする罪悪感がすーっと消えてなくなる本」に寄せて
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