何らかの期待が裏切られたときに、私たちは「失望」します。
しかし「失望」とは、その「期待」したものが、自分自身の真実のビジョンではない、ということを教えてくる、人生の羅針盤です。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.失望とは、そこを解放する必要があるという信号
ものごとが望みどおりにならなかったとき、私たちは失望します。
そして、たいていの場合、失望の最初の段階にとどまってしまいます。
でも、すすんで失望のプロセスを体験して、そのなかにある欲求を感じ、それを手放せば、ストレスから抜けだしてうまくいく方向へと向かうのです。
人生を自分の考えるわくのなかに何とか押しこめようとするかわりに、人生のリズムに耳を傾けましょう。
もしあなたが手放せば、失望は自分の描いていた人生のイメージが真実ではなかったことを教えてくれたのだ、ということを学ぶはずです。
いっぱいになったコップには、もうこれ以上、何も入りません。
私たちがいちど、そのコップを空にしたとき、はじめて本当の人生で満たすことができるのです。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.257
2.「失望」と「期待」の関係
「失望」する心理の前提にあるもの
今日のテーマは、「失望」でしょうか。
自分の思い通りに、ならないとき。
自分の思い描いたものとは、かけ離れているとき。
私たちは、「失望」します。
「こんなはずじゃなかった」
「聞いてたんとちがう!」
「あんな人だとは思わなかった」
…などなど、とってもイヤな感情ですよね、ほんと…泣
しかし、そうした「失望」してしまう心理には、前提があります。
すなわち、「こうなるはず」「こうなるのが当たり前」という、自分の想定です。
これを、「期待」と呼んだりします。
「期待」がなければ、「失望」もありません。
言い換えると、「失望」するということは、「期待」していたことへの裏返しでもあるわけです。
毎日毎日、中日ドラゴンズが勝つと「期待」すればこそ、手痛い負けを喫すると「失望」するのですね泣
「期待」は、欲求が形を変えたもの
この「期待」ですが、実はその正体は自分自身の「欲求」です。
「こうなったらいいな」「こうしてほしいな」という「欲求」。
それは、「依存」の時代に特徴的な心理です。
人の心は、「依存」から「自立」、そして「相互依存」へと成長していきます。
いちばん最初の「依存」とは、自分では何もできず、誰かに何かをしてもらいたい状態を指します。
赤子が、眠たくなったらぐずるように、おなかがすいたら泣くように。
新しく配属された部署で、手取り足取り仕事を教えてほしいように。
惚れたパートナーに、愛していると言ってほしいように。
「これをしてほしい」「あれを何とかしてほしい」という要求を、常に周りの人に出し続けるのが、「依存」の状態です。
こうした「依存」の状態は、ある意味ではラクなのですが、ある意味では辛いものです。
どれだけ泣いても叫んでも、ミルクがもらえるかどうかは、相手次第だからです。
「依存」の時代とは、他人に振り回される状態です。
これが辛くてしんどいので、人は「自立」へと向かっていきます。
他人に頼ることをやめて、何でも自分でやろうとしていくわけですね。
しかし、当たり前の話ですが、すべてのことを自分でできるわけではありません。
そのため、「自立」のフェーズに移ると、人は他人に対して要求をせずに「期待」をするようになります。
口には出さないけれど、「こうなったらいいな」と。
これが、「期待」の心理です。
しかしながら、その「期待」は常に叶うわけではありません。
「期待は裏切られるもの」
という格言がありますが、その通りです。
その「期待」が裏切られた状態が、「失望」というわけです。
ずいぶんと、ここにたどり着くまでに、長くなりました笑
3.「失望」は、人生の羅針盤
「失望」は、その「期待」が真実ではないと教えてくれている
そうした「失望」の心理。
それは、とてもイヤなものですが、それは私たちに重要なことを教えてくれます。
すなわち、その「期待」した絵姿は、自分自身の真実のビジョンではない、ということです。
もしあなたが手放せば、失望は自分の描いていた人生のイメージが真実ではなかったことを教えてくれたのだ、ということを学ぶはずです。
引用文にも、ある通りですね。
それは例えるならば、自分がツバキの花なのに、桜になれなくて「失望」してしまった、という感じでしょうか。
もちろん桜は美しく、人の目を惹きます。
しかし、「桜になれない…」という失望を感じるのだとしたら、それはもしかしたら、桜が自分の真実のビジョン、本来の姿ではないのかもしれません。
桜になれない、と「失望」するときは、自分がツバキであることを、思い出すタイミングでもあるといえます。
だから、「失望」から逃げず、その根本にある欲求と、向き合うことです。
そのプロセスは、自分自身の偉大さを、思い出させてくれます。
はっとするような、紅い美しさのツバキの姿。
それは誰にも恥じることもありませんし、比べることもありません。
ただただ、そのままに咲きほこればいい。
自分自身の素晴らしさを、偉大さを、「失望」は思い出させてくれるのかもしれません。
「失望」をするたびに、磨かれる
「失望」のたびに、私たちは自分自身を知ります。
そこじゃない。
比べるんじゃない。
そこに期待するんじゃない。
自分自身の光を、見つめなさい。
ただただ、自分自身でありなさい。
失望するたびに、そう言われているような気がするのです。
失望とは、木の中から仏像を彫り出してくれる、彫刻刀のようなものなのかもしれません。
「失望」は、誰にとってもイヤなものです。
人間ですから、「期待」もすれば、「失望」もします。
けれど、「失望」をするたびに、自分自身が磨かれていくと思えば、そんなに悪いものでもないのかもしれません。
今日は、「失望」の心理について、お伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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