「愛」と「愛情」の違いについて、考えてみます。
「愛情」とは、寂しさや悲しさと同じ、感情の一つですが、「愛」はそうした感情とは少し違うようです。
生きることは、「愛」に還る旅のようでもあります。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.愛は何も執着せず、すべてを与えることを望むもの
愛には何の期待もなく、条件もありません。
「もしあなたがあれを与えてくれたら、私はこれをあげましょう」というような取引でもないのです。
すべてを与え、何に対しても執着しないとき、すばらしい力と愛と創造性の感覚が内側からわきあがってきます。
そして、あなたの心が開き、時を超えます。
そのとき、あなたはより高次の意識のなかに入ることでしょう。
そこではすべてが色あざやかで、愛に満ちています。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.329
2.「愛情」は感情であり、「愛」は時を止める
今日のテーマも、難しいですね…「愛」そのもの、でしょうか。
なんだか壮大なテーマではありますが、がんばってお伝えしてみたいと思います。
「愛情」とは感情の一つ
以前にも書いたような気もするのですが、私のブログでは「愛」と「愛情」を意図的に書き分けています。
「愛情」とは、「感情の一部である」というニュアンスで使っています。
なんたって、「情」の文字が入っていますしね。
私たちは、いろんな感情を抱きます。
感情とは日々移ろい、日々変わりゆき、日々生まれ、日々流れてゆくもので、一つとして同じものはありません。
それは、この世界に一つとして同じ色がないことや、一つとして同じ空がないことと、よく似ているような気もします。
それに「群青色」「薄紅色」や、「秋晴れの空」「うろこ雲」といった名前を、便宜上つけているのでしょう。
同じように、私たちが抱く感情に、一つとして同じ感情はないように思います。
「愛情」とは、ある感情のグループに付けられた名前の一つです。
それは、「悲しみ」や「寂しさ」、「虚しさ」といった感情と、同じです。
もちろん、「愛情」が指し示すところの愛おしさであったり、慈しみといったものは、美しいものです。
けれども、それと同じくらいに、どんな感情もまた、人間らしさの一部のように思うのです。
だからといって、「悲しみ」や「寂しさ」を、進んで味わいたくはないのですが笑
ただ、そういった感情が「ある」、ということ。
誰かのことを、どうしようもなく愛おしく想う気持ちを持つ人が、狂おしいほどに誰かを憎むことがあるのもまた、人間だと私は思います。
パートナーシップでは、多くの人が経験することかもしれません笑
そうしたネガティブな感情を持つことは、とても苦しいものですが、さりとてそれなくして、人間は人間でいられるのだろうか、とも思います。
ちょうど、いまは「秋分」の時候にあります。
陰陽それぞれが半分ずつあるのが、この世界のことわりなのかもしれません。
だからというわけではありませんが、カウンセリングの場でお伺いするお話に滲む感情に、正誤善悪もなく、ただそれと一緒に「ある」ことを私は意識しています。
「愛」とは、執着でも期待でも取引でもなく
「愛情」とは、愛おしいと思う感情の一つ。
では、「愛」とは何でしょうか。
百人百様の答えが、あるのでしょう。
けれども、私がここで「愛」と書くときには、「愛情」などの感情とは別のことを指します。
それは感情というよりも、ただ、そこにずっとあるものであり、ただそれに気づくもののようなニュアンスです。
「愛」とは、神さま、あるいは仏さまといった存在と、近いのかもしれません。
ただ、そう書くと、いろいろなイメージがくっついてしまうので、あまり正確ではないのかもしれませんが…
今日の引用文では、「愛」とは執着でもなく、期待でもなく、取引でもない、と言っています。
どちらかというと、執着や期待、取引といったものが、「人間らしいなぁ」と感じてしまう私なのですが笑、「愛」とはそういったものではない。
執着、期待、取引ではなく、その人を想うこと。
そして、すべてを与えようと望むこと。
そういった状態を「愛」と呼ぶ、と。
すべてを与えよう、というのは、なにも全財産を投げ出すとか、そういった意味ではありません。
ただ、東の空に向けて、祈りをささげる。
それだけのことが、すべてを与えることになることもあるのでしょう。
執着、期待、取引、そういったものからではなく、「愛」に触れるとき、私たちの心はオープンになり、時間が止まったような感覚を覚えます。
すべてを与え、何に対しても執着しないとき、すばらしい力と愛と創造性の感覚が内側からわきあがってきます。
そして、あなたの心が開き、時を超えます。
少し、想像してみてください。
よく晴れた春の日、満開の桜の下。
見上げると、すべての花びらが、こちらを向いているようです。
ふっと風が吹き、その花びらが散ります。
春の空に、その花びらが描く、淡い情感。
それを見ている心には、なんの執着も、期待も、ありません。
ただ、それを眺めている時間が、止まっている。
そんな感覚になるような気がしませんでしょうか。
「愛」に触れた瞬間なのかもしれません。
3.生きるとは、「愛」に還る旅
私たちは、この肉体に与えられた生のなかで、生きます。
その生の中では、「愛情」をはじめとした、いろんな感情を感じたりもします。
うれしかったり、悲しかったり、悔しかったり、愛おしかったり…
さまざまな情感を抱きながら、私たちは生きます。
けれども、そうした肉体としての生とともに、どこかで永遠とでも呼ぶ時間を生きるのもまた、人であるように思います。
私たちの心には、そうした永遠の時間を開く扉が、どこかにあるようです。
「愛」とは、その扉の向こう側を指すと思うのです。
「愛」について、人は語り、求め、それを探します。
それはなぜかといえば、「愛」があることを知っているから、だと思うのです。
知っているからこそ、それを探し求める。
けれども、それはどこか遠い彼方にあるのではありません。
遠くに探しに出かけたり、何かを代償に得ようとしたりしても、あるいは過剰に期待したりしても、なかなか見つからないものです。
「愛」とは、執着や期待、あるいは取引ではないからです。
ただ、ある瞬間にふっと、そこにあることに気づくものです。
それは、先に挙げたような、春の空に散る桜のようなイメージが近いのかもしれません。
その先に「愛」とつながると思っていた扉は、実は鏡だったのかもしれません。
その鏡に映るのは、自分自身です。
カウンセリングなんかでも、よくあるお話です。
どうしても「愛」がほしくて、ほしくてたまらなくて、苦しい。
けれども、よくよくお話を伺っていくと、その方そのものが、「愛」そのものとしか、私には思えないわけです。
どうしても、ほしかったもの。
手を尽くしても、得られなかったもの。
人生をかけてでも、与えてほしかったもの…
そうしたものが、実はずっと、その方自身が、周りに与えてきたものだったのかもしれない、と。
そうしたときに、何をお話ししたらいいか、私には分からなくなります。
ただただ、「それほどに、愛したかったんですね」としか、言いようがなくなります。
ただ、それでも、そうだとしても。
生きるとは、「愛」に還る旅だと思うのです。
どのようなルートをたどっても、結局、最後には「愛」にたどり着きます。
それは、今日を生きる私たちに与えられた、偉大な贈り物のように感じられるのです。
ただ、そのことをお伝えしていくしか、できないのかもしれません。
今日は「愛」についてお伝えしましたが、心理学というよりも、エッセイに近くなったような気がします笑
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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