「無邪気さ」とは、「罪悪感」を癒すことのできる偉大な力です。
そんな「無邪気さ」の持つイメージと、無邪気でいるためのヒントについてお伝えします。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.無邪気さはパートナーへの最高の贈り物
無邪気さとは、パートナーやあらゆる人を愛せる「大きさ」であり、創造性という贈り物を世界に与えられる「広さ」なのです。
あなたの無邪気さはパートナーを祝福し、愛され、大切にされていると感じさせます。
そして、人生はすばらしい宝物だという気持ちをもたらします。
無邪気さによってパートナーが目の前で花開き、いつもあなたに与えたいと望んでいたすべての贈り物や愛情を与えてくれるのです。
無邪気さがあると、あなたはあますことなく愛されているのを感じ、創造的な感覚がおとずれます。
人生のあらゆる分野ですべてがうまくいっている感じがすることでしょう。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.385
2.無邪気さの持つ大きな恩恵
今日のテーマは、「無邪気さ」でしょうか。
「無邪気さ」という心理学の用語が、特別にあるわけではありませんが、とても大切な概念といえます。
無邪気さは罪悪感を癒す
今日はいきなり結論から入ってしまうのですが、「無邪気さ」が持つ大きな力とは、「罪悪感」を癒してくれることです。
「罪悪感」は、何度となくここで取り上げてきましたが、それくらい重要な心理の一つです。
それは、自分が悪いことをした、何がしかの罪を犯した、という意識から、罰を与えるような行動を取るように自分を仕向けます。
具体的には、誰かを助けられなかった、見捨ててしまった、自分だけが恵まれている、自分は汚れている、といった感情が「罪悪感」を生みます。
そうした「罪悪感」を抱いていると、自分を幸せから遠ざけるような言動を、わざわざ選んでしまいます。
あらゆる問題の根っこには、「罪悪感」があるといっても、過言ではないと思います。
さて、そうした諸悪の根源のような「罪悪感」を、「無邪気さ」は癒してくれる力を持っています。
なぜか。
「罪悪感」が厄介なところに、相手と自分の持っている「罪悪感」が共鳴、増幅しやすい、という点があります。
自分が「罪悪感」を持っていると、相手のそれを刺激してしまう。
相手が「罪悪感」にまみれていると、自分もまたそれに引きずられてしまう。
「罪悪感」でガッチリとつながってしまい、なかなかそこから抜けられない、というのはよくある状況です。
たとえば「パートナーが浮気した」という問題なんかだと、浮気した側の罪悪感と、それを責める側の罪悪感がぴったりと一致して、状況が膠着したりします。
「無邪気さ」は、そうした強力な「罪悪感」をほどいてくれる、ジョーカーのような存在といえます。
無邪気さ、打算のなさ、童心
「無邪気さ」には、そんなすごい力がある。
では、「無邪気さ」とは、具体的には何なのでしょう。
文字通り、「邪気」の無さ、というのが、一つの答えです。
「邪気」の「邪」とは、「よこしま」とも読みます。
「よこしま」な考え、言い換えると、打算や犠牲、あるいは取引といったものが、含まれていないことが、「無邪気さ」といえます。
そうした「よこしま」なものがないというと、「童心」という言葉のニュアンスとも、近いように私は感じます。
想像してみてください。
世界で最も重い罪を背負った囚人が、無限に続く荒野を歩いています。
その肩には重い荷物を背負い、そして手と足には枷がはめられています。
その姿を見て、道ゆく人は目を逸らします。
けれども、一人の小さな童がこちらを見て、不意に目線が合いました。
囚人が無意識に目線を逸らそうとしたその刹那、童は囚人をまっすぐに見て、にっこりと笑いました。
そして、その手に持っていた一輪の白い花を、囚人にそっと差し出しました。
その囚人は、おずおずとしながらも、世界で最も高価な宝石を扱うように、受けとります。
童は、満面の笑みを浮かべ、そして手を振って走り去っていきました。
囚人は、呆然としてその姿を眺めていました。
気づくと、肩に食い込むようにしていた荷物が、どこかへいってしまいました。
風に揺れているその花に目を移すと、手足にはめられていたはずの枷もまた、どこかへ霧散したようです。
そして、いままで着ていたはずのぼろぼろの囚人服は、とても仕立てのいい服に変わっていました。
「無邪気さ」が「罪悪感」と癒すとは、そんなイメージです。
どんな罪を背負った人であっても、「無邪気さ」はそれを癒し、吹き飛ばしてくれます。
3.無邪気さとは、ここにいることを「選ぶ」こと
「無邪気さ」は、「罪悪感」を癒す。
そうだとしても、「じゃあどうやったら無邪気でいられるの?」と思われると思います。
いまさら、タイムマシンに乗って、子ども時代に戻れるわけでもありませんし…
それに、こんなに薄汚れてしまった心に、無邪気さなんてあるのだろうか?と思われるかもしれません笑
けれど、そうではないんですよね。
「無邪気さ」とは、年齢によるものではありません。
どんなときも、どんな瞬間にでも、「無邪気さ」を取り戻すことはできます。
そのヒントになるのは、「いま、ここにいること」と言えるかもしれません。
いま、この瞬間にここにいること。
先に述べたような「邪気」=「よこしま」な想いというのは、過去を悔いる、あるいは未来を憂うときに生まれます。
そうではなくて、いま、この瞬間を味わい尽くすこと。
それは、ただ目の前にある世界に、感動し続けることと言い換えられます。
そのためには、やはり自分自身の感受性を、取り戻していくことが必要になります。
自分が何を感じているのか。
何を心地よく感じ、何を不快に感じるのか。
あるいは、自分が喜びを感じる瞬間、愛おしさを感じる瞬間、悲しさや寂しさを感じるとき…そうしたものに素直になればなるほど、「いま、ここにいること」ができるようになります。
はい、ご想像の通り、いつもと一緒です笑
「自分の感情を感じる、感じつくす」ということが、結局は「無邪気さ」につながっていきます。
それは言い換えると、「自分らしくある」ということでもあります。
もし、あなたが自分をどんなに薄汚れているように感じたとしても、それは幻想です。
あなたの心のなかに、「無邪気さ」という魅力は、かならずあります。
先に書いた、「無邪気さ」イメージの文章。
あれを読まれて、小さな無垢の童が、あなたの中に浮かんだのでしたら。
それは、あなたのなかにも同じような「無邪気さ」があることの証です。
その「無邪気さ」は、あなたの「罪悪感」を癒し、そしてそれは周りの方へ与えることができる、最高のギフトになります。
その力が、あなたの中には、必ずあります。
今日は、「無邪気さ」の持つ力について、お伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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