私たちは、親に対する申し訳なさから、何かを達成しなければとか、何かを成し遂げなければ、と感じたりします。
けれども私たちがするべきことは、「愛された場所」を思い出す以外には、何もありません。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.「天国」を思いだすほか、神のためにすることはない
あなたから神への最高の贈り物は、「故郷」を思いだすことです。
たとえ、あなたがいまどんな経験をしていようとも、「故郷」は幸福な場所です。
あなたがとても大変な状況にいるときに、そこで「天国」を思いだしたとしましょう。
別の言葉でいうなら、完全な幸福を思いだし、それを経験することを選択したととします。
困難なところで「天国」を思いだすと、その状況が前に進みはじめます。
それはあなたの兄弟姉妹、愛する人すべてに共鳴します。
そして、幸福ではないものはすべて幻想ですから、やがては消えてなくなってしまうのです。
あなたが「天国」を思いだすとほど、地上に天国をもたらすことができます。
あなたは神さまのために特別、何かをしなくてもよいのです。
十字軍をひきいたり、大事業をなしとげたりする必要はありません。
あなたは愛と幸せ、つまり「天国」を思いだすだけでいいのです。
どんな状況でもそれをすれば、まずあなたからはじまって、みんなが自由になっていくことでしょう。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.431
2.「天国」を思いだす
今日のテーマは、何でしょうね。
とても抽象的で、心理学というよりは宗教的な色合いが強く感じるのですが、同時にとても大切なことのように聞こえます。
何かをしなければならない、という幻想
「何かをしなければならない」
「何かを成し遂げなければならない」
「何か結果を残さないといけない」
とかく私たちは、そんな想いを抱くものです。
もちろんそれは、私たちの純粋な願いの発露である場合もありますが、心の根底にあるネガティブな感情の裏返しであることもまた多いものです。
それは、自分の無価値感を埋め合わせするためであったり、自分の罪悪感からの行為であったり、はたまた埋め合わせのような補償行為であったりします。
今日のテーマは、それが「幻想だ」と言います。
「そんなことよりも、『故郷』を思いだすだけでいい」と引用文では言っています。
また、「神への最高の贈り物は、『故郷』を思いだすことだ」、とも。
ここでいう「神」とは、宗教的な文脈でのそれではなく、「完全なもの」としての象徴としての意味合いが強いように思います。
そうした概念を、私たちは何かに投影しているのでしょう。
その典型的な対象が、「親」といえます。
親に対して抱く、申し訳なさ
私たちは、自分が何かを成し遂げないと、親に対して恩返しができないように感じたりします。
そして、その感覚というのは、どれだけ何かを成し遂げたりしたところで、消えないものです。
「まだ、足りない」
「こんなんじゃ、恩返しや親孝行できていない、申し訳ない」
はい、こうした想いは、私たちをラットレースに駆り立てます。
そして、お気づきのように、親に対しての愛が深ければ深いほど、そうした想いを抱きやすいものです。
けれども、今日のテーマに即して考えるならば、それは「幻想」です。
親に対して、しなければならないことは、何もないものです。
強いて言うならば、笑顔で幸せでいること、それだけかもしれません。
いや、たとえどんな困難や挫折が訪れて、絶望のなかにいたとしても、だからダメだとか、そんなことはありません。
私自身も、ずっと何かで恩返しをしないといけない、ずっと親不孝をしてきたことを償わないといけない、という想いを抱いてきました。
けれど、自分が親の立場になってみて、それは「幻想」だったと気づきました。
子どもは、もう生まれてきただけで十分なんです。
そしてそれは、私の親も、そう思っていたのかもしれない。
もちろん、すぐには「幻想」がすべて晴れるわけではないですし、よくその思考に入ってしまいますけれどね笑
でも、「幻想」は「幻想」なんです。
それは、真実ではない。
だから、思い出すだけでいいんです。
3.愛された場所を、思い出す
「故郷」の二重の意味
今日の引用文にある「故郷」とは、象徴的な意味合いで使われています。
私たちの魂がいつか帰る場所であり、天国といった意味合いです。
けれども、字面に近い「故郷」の意味でとらえても、構わないように私は感じます。
それは「生まれ育った場所」というよりは、「愛された場所」という意味です。
これを読んでおられる方のなかには、親との関係に確執がある方もいらっしゃるかもしれません。
「愛された記憶なんか、まったくない」と思われる方も、いらっしゃるかもしれません。
あるいは、早くに親との離別を経験された方も、いらっしゃるかもしれません。
「愛された場所」というのは、自分に愛を与えてくれた人がいた場所であり、その記憶です。
どんな人にも、それは必ずあるはずです。
人は、パンとミルクのみで大きくなれるわけではありません。
いまここの文章を読んでおられるあなたがいるということは、あなたに愛情を注いでくれたどなたかが、いらっしゃったということです。
それは、親かもしれません。
おじいちゃん、おばあちゃんだったかもしれません。
きょうだいの誰かだったかもしれません。
いつも顔を合わせる、近所の方だったかもしれません。
学校や学童の先生だったかもしれません。
愛おしいペットだったかもしれません。
必ず、愛情を注いでくれた誰かが、いたはずです。
その愛を注いでくれた場所が、「故郷」であり、「愛された場所」です。
私たちは、それを思い出すだけでいいんです。
愛された公園
私自身も、愛された場所を思い出した経験がありました。
4,5年くらい前のことでしょうか。
その頃の私は、絶望的な気分に苛まれていました。
心理学に出会い、心の世界を学び始めたのですが、どうやっても自分自身のなかのネガティブな感情が消えません。
ある日、はじめて訪れる公園に、子どもたちを車で連れていきました。
その公園は、自宅から少し離れており、私が車を運転するようになってから、初めて通る道でした。
ふと、その公園に近づくにつれ、ありありと私はその公園を訪れたことを思い出しました。
それは、母と訪れた記憶でした。
ずっと忘れていた、心のどこかに仕舞われていた記憶でした。
用水路の風景、家の屋根の色…数十年前の記憶が、いまの私の眼前と重なります。
もちろん、変わってしまった風景もありましたが、変わらないものもありました。
そして、私はその重なっていた風景のなかで、愛されていたことを思い出し、気づけば車中で落涙していました。
そのできごとは、一つの転換点のようなできごとでした。
困難なところで「天国」を思いだすと、その状況が前に進みはじめます。
まさに、引用文の通りのように思います。
そうした「愛された場所」を思い出すこと。
それが、私たちにできる唯一のことであり、それ以上ない至福をもたらすものなのでしょう。
今日は、心理学というよりも、少しテイストの違ったテーマでお届けしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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