「自分いじめ」をしてしまう心理と、なぜそれをしてはいけないのかについて、考えてみます。
それを止めるためには、「自分をいじめるほどに誰かを愛したかった」という視点を持つことが有効です。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.人に自分を虐待させても、だれのためにもならない
あなた自身を尊重しましょう。
そして、まわりの人々にもあなたを尊重するように求め、あなたに危害を加えることのないようにしましょう。
なぜなら、あとで彼らが罪悪感によって引きこもりか攻撃の再発という悪循環にはまらないようにするためです。
ときにはエゴの自分が虐待されるような場に身をおいてしまうことがあります。
そして非暴力の考え方や弱気から、されるがままになってしまいます。
虐待を受けるような状況にとどまるのは、どこかで罪の意識を感じていたり、自分が犠牲になる必要を感じているからなのです。
あなたが情緒的、または肉体的に虐待されていると感じる場面では、それを許してはいけません。
だれのためにもならないからです。
できるかぎりのことをして、相手にあなたを虐待させないようにしてください。
それを非常に強くはっきりと伝えなければならない場合があります。
あるいは出来事の性質上、その場からはなれる必要のある場合もあります。
あなたがその場をはなれても、相手に援助を送りつづければ、事態は好転しはじめることでしょう。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.420
2.誰よりも厳しい「自分」という存在
今日のテーマは、「自分を愛する」でしょうか。
もう耳タコくらいのテーマかもしれませんが笑、あらためてこのテーマについて考えてみたいと思います。
自分に対して世界で一番厳しいのは、自分自身
「この世界で、一番自分に厳しい人は、自分自身である」
そんな言葉がある通り、私たちはとかく自分に対して厳しくしがちです。
もちろんそれが、自分を激励し、高みに引き上げることのできる厳しさならば、問題はありません。
けれども、それが「虐待」や「いじめ」に近いレベルでしてしまうことが、往々にしてあります。
自分に対してかけている言葉や、している行動。
それらを客観的な視点で見てみると、実にひどいことを言っている、していることがあります。
「なんで、そんなこともできないんだ。普通の人はできるはずだろ!」
「お前が悪いから、こんなことになったんだぞ」
「人として、大切なものが欠けているよ」
そんな言葉を投げかけて、自分自身を寒風吹きすさぶ牢獄に押し込めてはいないでしょうか。
これ、もし自分以外の第三者がやっていたとしたら、ほぼ例外なく「パワハラ」「モラハラ」「〇〇ハラ」と言われるのではないでしょうか。
場合によっては、名誉棄損や侮辱罪が適用されるかもしれません。
ちなみに、侮辱罪をググってみました。
刑法231条(侮辱)
事実を摘示しなくても、公然と人を侮辱した者は、一年以下の懲役若しくは禁錮若しくは三十万円以下の罰金又は拘留若しくは科料に処する。
1年以下の懲役、もしくは禁錮、もしくは30万円以下の罰金。
けっこう、厳しいんですね…おそろしや。
そんなおそろしいことを、無意識にでも、自分自身にしていませんでしょうか。
自分に対してかけている言葉は、外からは見えません。
それに気づいてあげることができるのは、自分しかいません。
「自分いじめ」の具体例
さて、そうした「自分いじめ」。
ひどい言葉を投げかけるだけでもおそろしいものですが、それが当たり前になってくると、具体的な行動になってきたりします。
「自分いじめ」といえる行動の例としては、こんなものがあります。
- ハードワークを自分に強いる
- 好きなものを遠ざけてしまう
- 自分に対してお金を使えない
- ブラックな職場に自分を置き続ける
- 人とのつながりを断ってしまう
- (直接的、間接的に)自分の身体を傷つける
- 自分を大切にしてくれない人に尽くしてしまう
- 自分を傷つける言動をしてくる人になぜか惹かれてしまう
これ以外にも、いろいろあるかと思います。
心当たりのあるものは、ありますでしょうか?
程度の差こそあれ、誰しもが当てはまる行動があるのではないでしょうか。
逆から見れば、こうした点があてはまるならば、「自分をいじめている」といえると思います。
先に挙げたような暴言を投げかけていなくても、こうした行動をしていれば、実質的に同じことといえます。
ただ、もしそれが当てはまるものが見つかったとしても。
それが悪いとか、よくないとか、間違っているとか、自分に対してそんな風に思うのは、できればやめてくださいね。
それがまた、新たな「自分いじめ」になってしまいますから。
「そっか、自分いじめをしているんだな」
そう気づくだけで、まずはいいんです。
そうすると、また同じようなシチュエーションになったときに、「あ、これは自分いじめだな」と気づくことができます。
そうすると、そこで選択ができるようになります。
3.自分をいじめるほどに、愛したかったのは誰ですか?
自分をいじめることは、相手をも傷つけている
さて、「自分いじめ」を具体的に見てきたうえで。
なぜ、それがよくないのかについて、少し考えてみます。
「え?自分がしんどいからじゃないの?」
と思われたでしょうか。
もちろんそれが第一ですが、それは答えの半分でしかありません。
残りの半分は、自分の周りの人にとっても、しんどいことになるからです。
それは、あなたの大切な人を傷つけることにもなりかねません。
「自分いじめ」をしていると、「私は軽んじられてもいい人です」「私は傷つけられてもいい人です」というメッセージを発信していることになります。
もし、あなたがとても大切な、愛おしいと想う人が、そんなことをしていたら、どう思われますでしょうか。
とても、悲しいですよね。
どうしてそんなことをと、思いますよね。
そうなんです。
「自分いじめ」をすることは、自分だけの問題ではないのです。
自分を大切に想ってくれる、愛してくれる人をも、傷つけるのです。
そしてさらに、もしあなたを傷つけてくる人を許容したりしたら。
その人は、あなたを傷つけたことで、罪悪感を抱きます。
罪悪感が、いかにその人の幸せを遠ざけるものかは、これまで何度も書いてきました。
自分を傷つけることを許容することは、自分の周りの人、大切な人をも傷つけてしまいます。
これが、「自分いじめ」をしてはいけない理由の、残り半分の部分です。
自分だけの問題では、ないわけです。
自分をいじめるほどに、誰かを愛したかった
さて、ここまで散々、自分をいじめることの怖ろしさと、自分を愛することの大切さをお伝えしてきました。
じゃあ、「自分を愛しましょう」「自分にやさしくしましょう」という結論になるとは思うのですが、そこに至る前に、お伝えしたいことがあります。
その視点を持つ前に、いろんな「自分を愛する」方法をためしても、なかなかうまくいかないものです。
はい、私もそうでしたから笑
その前に、考えてみたい
なぜ、そんなにも自分自身をいじめたり、ハードな環境に身を置いたりしてきたのでしょうか。
誰だって、自分自身が一番大切です。
誰だって、好きこのんで自分いじめに励んだりしません。
誰だって、自分にやさしくしたいはずです。
個としての自分を守るというのは、生物の本能でもあります。
けれども、あなたはそうしてこなかった。
それは、なぜか。
それを、無価値感や罪悪感といったことで「説明」できるかもしれません。
けれども、私はそれを説明することには興味がありません。
なぜ、世界で一番大切なはずの自分自身を、わざわざいじめないといけなかったのか。
私が持っている答えは、一つです。
誰かを愛したかったから。
自分をいじめることで、守りたい、愛したい誰かがいたから。
そうでなければ、わざわざ自分をいじめたりしません。
「自分にやさしくできない」と話す人ほど、どこまでもやさしい方です。
自分を犠牲にしてまで、誰かを愛したかった方です。
それは、私がカウンセリングでお話を伺ってきて、確信していることです。
その愛にフォーカスしないまま、ただ「自分にやさしく」「自分を愛する」という方法論だけを実践しても、あまり意味がないと思うのです。
私のカウンセリングでは、そこにフォーカスし続けたいと思っています。
人には、一人一人、その人なりのやさしさ、そして愛の形があります。
それがほんの少し、ボタンを掛け違うと、「自分いじめ」という形で表れてしまうのかもしれません。
もしそうだとしたら。
「自分いじめまでして、愛したかった」という原点に還ることは、とても意味のあることのように思うのです。
その愛とつながってしまえば、「自分いじめ」は自然と緩んでいきます。
けれども、なかなかそれは自分ではわからないし、気づけないものです。
だからこそ、人の手を借りる必要があるのでしょう。
私自身も、カウンセリングを受ける中で、その愛を見てもらってきました。
これから出会うあなたの愛も、見続けていきたいと思っております。
今日は、「自分を大切にする」という、とても普遍的なテーマでお届けしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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