「役割」の心理についてお伝えします。
本来の自分を否定される辛い経験から、私たちは「役割」を身につけます。
そうした「役割」の功罪と、その付き合い方について、少し考えてみます。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.すべての「役割」の背後には、死の誘惑がつきまとう
「役割」とは外側の固い殻であり、多くのものをおおい隠すことができます。
それは私たちが、かつて「もう死んでしまいたい」と感じたとき、身につけはじめたキャラクターなのです。
自分には何の価値もない、完全な失敗者だと感じて、自分本来の個性を捨てて「役割」を身につけたのです。
ただし、この役割がどれだけ成功したとしても、それで十分報われることはありません。
なぜなら、役割はあなた本人には何も受けとらせてくれないからです。
小さな子供のころには、人生の初期において性格というものの感覚をつかみ、まちがいから正しさを学ぶためにも、役割とそのルールには役に立ったかもしれません。
しかし、成長するにしたがい、だんだんそのルールが鎧のようになり、ついにはその重みに押しつぶされそうになります。
そのうえ何も受けとることができないので、ぐったり疲れはててしまうのです。
そこでは「そうするべき」だから行動しているのであって、それを「選択している」からではありません。
みんなからは大成功していると見られても、本人はぼろぼろに疲れきって、自分が単なる抜け殻にすぎず、落伍者で何の価値もなく、詐欺師だとさえ感じるのです。
じつはこうした感情こそ、もう二度と感じたくないと思って、その役割を身につけることでうめあわせ、身を守ろうとした、まさにその感情なのです。
役割は自分をよく見せてはくれますが、やがては死にそうなほど重くのしかかってしまいます。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.157
2.「役割」の功罪
今日のテーマは、「役割」です。
仕事のなかで、家庭のなかで、友人の前で、私たちは実にさまざまな「役割」を演じます。
今日はその「役割」について、少し考えてみたいと思います。
死の誘惑を逃れるために、「役割」をつくりだす
まずはじめに、人が「役割」を身につける、演じるようになるのは、「もう死んでしまいたい」という、辛い感情だといいます。
自分には何の価値もない、完全な失敗者だと感じて、自分本来の個性を捨てて「役割」を身につけたのです。
のっけから、かなりヘビーな内容ですね汗
しかし、「役割」というものの性質を見ていくと、それはとても自然に見えます。
「役割」は、自立的な人ほど、それを演じている傾向が強くなります。
いわゆる「自立の自立」と呼ばれる、自立が非常に強まった状態になると、常に何かを演じている状態になるほどです。
これは、「依存」時代の恩恵である、無邪気さ、素直さ、無垢な私といったものを、否定したところからきています。
言い換えると、そうした自分自身の無邪気さ、素直さ、無垢といった私で、深く傷ついた経験から、身を守るための自己防衛ともいえます。
たとえば、幼い頃はとても内向的で、もの静かで、自分の世界で遊ぶことが多かった子がいたとします。
その子が成長していくうちに、周りから「なんか、あの子暗いよね」「何考えてるか、わかんないよね」と言われたりといった経験をして、とても傷つくことがあったりしたら。
がんばって、みんなの輪に入ってよく話す、社交的な私という「役割」を身につけていく。
あるいは、その逆のケースもありますよね。
とても活発で、人見知りしないような子が、「女の子なんだから、おしとやかにしなさい!」と怒られ、その性格を否定されたことで、「もの静かな私」という「役割」を身につけたり。
どのような形であれ、「役割」というものが生まれる背景には、とても辛い経験があるようです。
どうせ、誰もほんとうの私を愛してくれない
そうした「役割」を身につけることで、人は安心します。
「これで、私の価値を認めてくれる」
社交的な私でいることで、周りから認められ、受け入れられる経験をします。
あるいは、おとなしい、おしとやかな私でいることで、親から怒られなくなる。
しかし、これがしんどいのは、皆さんご承知の通りです。
その「役割」を演じている私が受け入れられれば、受け入れられるほど、その裏側にいる私が疼くわけです。
「誰も、ほんとうの私を愛してくれない」、と。
なぜなら、役割はあなた本人には何も受けとらせてくれないからです。
まさに、引用文の通りです。
自分に向けられた評価や愛情、好意といったものは、すべて「役割」に向けられたものだ、と感じてしまいます。
恋愛なんかでも、よくありますよね。
「この人は、ほんとうの私を知ったら、愛してくれるのだろうか」
そうした想いを抱えたことのある方は、少なくないのではないでしょうか。
「役割」を演じていくと、やがてその重みに潰されそうになってしまうようです。
みんなからは大成功していると見られても、本人はぼろぼろに疲れきって、自分が単なる抜け殻にすぎず、落伍者で何の価値もなく、詐欺師だとさえ感じるのです。
まさに、引用文にある通りです。
これ、すごーくよく分かる表現ですよね…
どれだけ認められても、自分はからっぽの抜け殻で、何の価値もないように感じる。
それどころか、「それは私じゃないのに…」と、なんだか皆を騙しているような、そんな罪悪感すら感じてしまう。
はい、とても胸が痛くなる話です笑
3.「役割」を選べるように
おおもとの感情と、向き合う
それにしても、変な話ですよね。
すごく辛い、しんどい経験があったから、「役割」を求めたのに。
その「役割」の果てには、また同じような、しんどい思いが待っているとは。
「役割」を降ろして楽になるためには、どうしたらいいのでしょうか。
カギになるのは、やはり自分の感情なのだと思います。
「役割」をつくるきっかけとなった、辛い経験で感じたこと。
それが、結局めぐりめぐって、「役割」をつくった先でも感じることになった。
まずは、その感情と、向き合うことが大切になります。
もちろんそれは、引用文の言葉を借りるならば、死の誘惑を感じるほどに辛い感情だったのでしょうから、とても怖いものです。
自分には何の価値もなく、否定され、受け入れられなかった。
進んで、そんな感情を味わいたいとは、誰も思わないですよね笑
だから、それを一人でやろうとしないことです。
安心できる相手や、カウンセラーに、話しを聞いてもらう。
それだけでも、違うはずです。
しかし、とかく自立的な人ほど、「困難は一人で乗り越えるもの!」「頼るという言葉は、私の辞書には無い」という方が多いものです。
けれど、しんどいことは、一人でやらなくても、大丈夫なんです。
それだけは、覚えておいてくださいね。
「役割」を無くすのではなく、選べることがベスト
ただ、そうした「役割」を無くすことが目標なわけではないと、私は思います。
上に書いた「自立」もそうなのですが、「役割」にもまた恩恵の部分があります。
小さな子供のころには、人生の初期において性格というものの感覚をつかみ、まちがいから正しさを学ぶためにも、役割とそのルールには役に立ったかもしれません。
引用文にあるように、「役割」を通して、私たちはいろんなものを受けとってきました。
その「役割」があったからこそ、周りの人が喜んでくれたことも、あったはずです。
もちろん、だからといって、それをずっと続けていくと、しんどいことになるのは、これまで見てきたとおりです。
ということは。
「役割」を、必要なときに演じて、そうでないときは降ろせるようになると、ずいぶんと楽になるのではないでしょうか。
これは「執着」でも同じことが言えるのですが、一つしかない、選べない状態は、私たちにとって苦しいものです。
「そうするべきだから」
「みんなが求めているから」
「そうしないといけないから」
という理由から「役割」を求めると、途端にしんどくなります。
選択肢がない状態、ともいえます。
毎日、夕食が絶対に同じメニューだったら、飽きるし、しんどいですよね。
時には「役割」を演じることもあるし、そうでないときもある。
それは、そのときそのときの自分で、選ぶことができる。
そういう状態が、理想なのかな、と思うのです。
だって、相手の喜びために「役割」を演じるのも、あなたの素晴らしいやさしさであり、愛情だと思いますから。
それを選べるようになるのが、理想かなと思います。
今日は「役割」について、少し掘り下げてみました。
ここまでお読みいただきまして、ありがとうございました。
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