「感情」を抑えようとすると、かえってつらくなります。
ネガティブな感情はイヤなものですが、それを感じることは、自分を愛することの一つです。
「感情」の性質が見せてくれる、私たちの生の希望について、お伝えします。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.感情をふり切ろうとすれば、かえってつらくなる
自分の感情に抵抗して、痛みから逃げ出そうとすると、そこに背を向けることで大変さは二倍になり、それだけ多くの感情をうめなければならなくなります。
たとえば愛する人を失ったとき、その喪失感は感じたくないかもしれません。
すると、喪失感を終わらせるためには当然通過しなければならない、悲嘆と怒りを避けようとします。
そのうえ喪失感に背を向けたときに、新たに不快感や拒絶感という別の感情までつけ加えてしまうのです。
罪悪感を感じたくないときも同じことが起こります。
はじめにうめこんだ感情に、ほかの感情をつけ加えていけばいくほど、自分の感情とのつながりを断たざるをえなくなります。
感情を内面にうめてしまうのではなく、感じることを選択して全面的に感情を体験していけば、すぐにそれは消えてしまうことでしょう。
するとそこでは新しいはじまりを迎えるのです。
失望もあとに捨ててくことができます。
それは、徐々に私たちを老いさせ、すり減らしてしまうものです。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.179
2.「そうせざるをえなかった」という視点
今日のテーマは、「感情」です。
昨日に続いてのテーマですが、また違った視点で考えてみたいと思います。
一つだけの「感情」を抑えるのは、不可能である
自分の感情に抵抗して、痛みから逃げ出そうとすると、そこに背を向けることで大変さは二倍になり、それだけ多くの感情をうめなければならなくなります。
引用文の中のこの一文が、「感情」について端的に言い表しているように思います。
目をそむけるほどに、大きくなる。
感じるほどに、抜けていく。
「感情」とは、かくも天邪鬼なようです。
しかし厄介なのは、その「感情」に抵抗して、目をそむけることが、ほとんど無意識にされることかもしれません。
「感じたくない」と明確に自分の意志で閉じてしまうことも、あるのかもしれません。
けれども、「気づいたら、そうなっていた」ということの方が、多いのではないでしょうか。
私自身も、そうでした。
たとえば愛する人を失ったとき、その喪失感は感じたくないかもしれません。
すると、喪失感を終わらせるためには当然通過しなければならない、悲嘆と怒りを避けようとします。
この引用文にあることと、同じような経験をしてきました。
私の場合は、両親を亡くしたことでした。
それは、自分で「喪失感がつらいから、感じないようにしよう」と決めたわけでもなく、ただ、そうなっていた、という感じです。
親しい人を亡くすと、人の心はさまざまなプロセスを通ります。
引用文にあるように、喪失感にいたるまでに、さまざまな感情を通ります。
パニックのような呆然自失になったり、怒りや罪悪感、その裏返しの無力感、抑うつ状態。
そうしたものを、すべて避けたり、感じることを切ってしまったりします。
ネガティブな感情を切ると、その反対にある感情も、感じることが難しくなります。
悲しみを感じられないと、喜びもまた感じられなくなります。
寂しさを感じられないと、つながりもまた感じることができなくなります。
一つの感情から目をそむけることは、やがて多くの感情、すべての感情を切っていくことになります。
その先にあるのは、無関心、無感動な、灰色の世界です。
そうせざるをえなかった、という視点
そのような、「感情」の性質。
しかしながら、たとえそのように「感情」から目をそむけたとしても、それがいいも悪いも、ありません。
そうせざるをえなかった。
ただ、それだけなのだと思います。
何度も書いていますが、心理学的な知識や知恵と、善悪の判断を分けて考えることは、大切なことです。
「感情は抵抗して、目をそむけていると、ますます膨れ上がって大変になる」
ということを聞いたとしても、
「感情に蓋をしていた自分が、悪いんだ」
というふうに考えないことです。
「そうせざるをえなかった」
それだけのことです。
それは、カウンセリングの中でも、私が最も大切にしている視点の一つでもあります。
どのようなお話であっても、その視点は忘れないようにしたいと思っています。
なぜ、そうせざるをえなかったのだろう。
そう考えていくと、「それだけ、亡くした人のことが、大切だったから」という、愛の視点で見ることもできますから。
たとえ、今日のテーマで「当てはまるな」と感じることがあったとしても。
「そうせざるをえなかった」、とご自身のことをいたわってあげてくださいね。
3.「感情」という希望
悲しむこともまた、自分を愛すること
「感情」についての、いくつかの性質を、見てきました。
誰でも、ネガティブな感情は、イヤなものです。
しかし、私たちが生きる上では、悲しいこと、悔しいこと、寂しいことといった、さまざまなことが起こります。
もちろん、それを恩恵として捉える視点も、大切でしょう。
けれども、そうしたことが起こったときに、悲しみに暮れ、涙を流し、絶望することもまた、人間らしさではないでしょうか。
いつも笑顔でいることも、もちろん大切なことなのでしょう。
けれども、身を引き裂かれそうな悲しみを感じることもまた、自分を愛することではないかと私は思うのです。
だから、そうした方が目の前にいたとしても、前を向こうとか、そうしたメッセージを私は言えないのですよね。
私自身、
「あなたが悲しい顔をしていても、亡くなった人は喜ばないよ」
そう言われるのが、一番しんどかった気がします。
それは、分かっているんだけれども…
そして、それを言った人も、私のことを想って言ってくれていることは、分かっているんだけれども…
人の心は、難しいですね、ほんとうに。
だから、いまは「ただただ、そこに在り続ける」ということが大切なように感じます。
たとえ、悲しみに暮れ、自暴自棄になり、あるいは、その感情から目をむけたとしても。
その人の感情を、ひいてはその人の生を、信頼の目で見守り続ける。
そんな風に、「感情」を見ていきたいなと、いまは思います。
自分の「感情」に対してもそうですし、クライアントさまの「感情」に対しても、ですね。
感情という「希望」
ネガティブな感情は、それを感じ切ると、いつしか心地よい感情に変わっていきます。
そこに、私は大きな「希望」を見ます。
感情を内面にうめてしまうのではなく、感じることを選択して全面的に感情を体験していけば、すぐにそれは消えてしまうことでしょう。
するとそこでは新しいはじまりを迎えるのです。
どんな悲しみも、苦しみも、痛みも、それを感じることで、消えていく。
そうした先に残るのは、やはり愛だと思うのです。
人の心は、ほんとうに繊細ですが、同時におどろくほどに強いものです。
どれだけの悲しみがあったとしても、何度でも立ち上がることができます。
どれだけ深い悲しみや、凍りつくような寂しさといった「感情」があったとしても。
必ず、その奥にある、あたたかでやわらかい場所に、触れることができます。
それには、何年、何十年という時間がかかるかもしれません。
けれども、何年かかっても、「感情」を感じつくし、新しく歩みはじめることができます。
この世界がそうであるように、私たちの生にも悲しいできごとが、起こります。
しかし、どれだけの悲しみがあったとしても。
それは、癒すことができる。
「感情」の性質の先に、そんな希望を私は見ます。
また昨日に続いて、少し広げすぎてしまった気がします笑
「感情」について考える、ご参考になりましたら幸いです。
今日もここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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