大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

「見捨てられた」という怒りに気づくとき ~大嵜直人の場合

「見捨ててしまった」という罪悪感の裏側には、「(自分が)見捨てられた」という怒りがあります。

具体的に、私自身がその怒りに気づいた経験を、お話してみたいと思います。

1.「見捨ててしまった」という罪悪感

昨日の記事では、「見捨ててしまった」という罪悪感をテーマにしてお伝えしました。

「見捨ててしまった」という罪悪感の裏側にひそむ、「見捨てられた」という怒り。 - 大嵜直人のブログ

「罪悪感」の種類の中でも、非常にメジャーなものに「見捨ててしまった」という罪悪感があります。

その相手が、自分にとって大切な人であればあるほど、その「罪悪感」は強くなります。

実家においてきてしまった両親。

自分から別れを切り出したパートナー。

何も言わずに辞めてしまった同僚。

いろんな場面で、私たちは「見捨ててしまった」と感じることがあります。

その選択をしなければ、見捨てることにはならなかった。

自分は、その相手を助けることができたのに、しなかった。見捨ててしまった。

そして、自分がした選択が間違っていたのではないかと責め、それゆえに自分を幸せから遠ざけようとするようになります。

この「見捨ててしまった」という罪悪感と向き合うためには、「あなたは見捨ててなんかいないよ」と直接的に癒していくことも重要ですが、その罪悪感の裏側にある感情を見ていくという視点も大事になります。

「見捨ててしまった」という罪悪感の、裏側にあるもの。

それは、「(自分が)見捨てられた」という怒りであり、悲しみや絶望感ではないか、というのが昨日の記事のテーマでした。

この「(自分が)見捨てられた」という想いを癒していくには、その相手を感情的に理解して、許していくというプロセスが王道です。

「あのとき、あの人はそうするほかなかったのかもしれない」

「決して、わたしを見捨てようとしたわけではなかった」

そのプロセスが進むほどに、「見捨てられた」という痛みは癒え、それとともに「見捨ててしまった」という罪悪感もまた、癒していくことができます。

「真実は反転のなかにあり」と言われますが、昨日の記事ではそんな視点をご紹介しました。

2.大嵜直人の場合

この「見捨ててしまった」という罪悪感と、「(自分が)見捨てられた」という怒り。

私自身もまた、この感情の裏表に気づいたときがありました。

一般論だけでは、あまり理解しづらいかもしれませんので、今日は私の個人的な経験で、このプロセスがどう進んだのかをお伝えしてみたいと思います。

私は、18歳で実家を出て、上京して一人暮らしを始めました。

姉が2人いましたのが、すでに2人とも実家を出ていましたので、実家に残ったのは両親だけでした。

ただ、父親は鉄道屋で、私が中学生のころから単身赴任で家を出ていましたので、実質的には母親一人になりました。

実家を出て一人暮らしをする解放感とうらはらに、どこかで私は両親を見捨ててきてしまった、という罪悪感がありました。

ただ、その一人暮らしをしていた当時は、そんなことを自覚することもなく、その罪悪感を自覚するのは、ずいぶんと後になってからでしたが。

そして、その罪悪感を決定的にしたのが、両親との死別でした。

私が家を出てから3年後に父親が急逝し、その翌年に母親もまた突然に亡くなりました。

実家に戻って住む予定だったのですが、私は故郷に戻っても、結局一人暮らしをすることになりました。

両親を亡くした喪失感から、ハードワークに勤しみ、そして人間関係でどうにもならなくなってカウンセリングを受けるまでに、15年ほど経っていたでしょうか。

カウンセリングを受けるなかで、両親の喪失、そして「見捨ててしまった」という罪悪感を癒すことは、何度となく主要なテーマとして出てきました。

はじめは、「両親を亡くして、悲しい。寂しい」、そうした感情を認め、感じることからでした。

母親を亡くしてから、ほとんど泣いたことがなかったんですよね。

今でも覚えているのですが、「両親への手紙」を書くワークをしたとき、滂沱のように涙があふれ、一晩中泣いていたことを思い出します。

その手紙を書くことだけで、3か月近くかかった気がします。

そこから、少しずつ、自分と向き合い、癒していくという旅路がはじまった気がします。

ただ、「見捨ててしまった」という罪悪感は強烈で、それはいつも私の心のなかに巣食っていました。

心理学を学び始め、カウンセリングを受けてから、何年か経ったころでしょうか。

ある日、ふと、「なんで、僕を見捨ててそっちに行ってしまったんだ!」という、怒りに満ちた感情に気づいたのです。

それは怒りというよりも、悲痛な叫びのようにも聞こえた気がします。

私は、両親に対して怒っている。

自分が「見捨てられた」と、怒っている。

その事実は、私にとって驚きに満ちたものでした。

「亡くなった人に対して怒る」というのは、「死者に鞭打つ」ようなことで、決してしてはいけない、そんな風に思っていたのかもしれません。

しかし、気づいてしまったものは、消えません。

いえ、気づいたからこそ、癒していくことができるともいえます。

その「怒り」を感じ尽くし、カウンセリングで話し、少しずつ癒していくことができました。

そうするなかで、自分が両親を「見捨ててしまった」という罪悪感もまた、少しずつ薄まってきたように思います。

もちろん、それが完全になくなることもなく、まだまだ自分のなかにはあるなぁ…とは感じますが、またこれから癒していけばいいのでしょう。

3.「怒り」の持つ意味

「怒り」は、決して悪いことでも、忌むべきものでもありません。

その大切な意味の一つに、「自立」のサインという意味があります。

「依存」の状態から抜け出すとき、私たちは「怒り」のエネルギーを使います。

私の気づきもまた、同じことだったのかもしれません。

不惑にもなって、ようやく両親から自立するとは、なんだかなぁ…と恥ずかしい限りですが笑、まあ人それぞれにペースがあるのでしょう。

「見捨てられた」という怒りに気づくとき。

それは、両親から自立していくサインなのかもしれません。

 

…とまあ、私個人の経験をつらつらを書いてきましたが、少しでもご参考になりましたら幸いです。

書いていて、改めて感じたのですが、「見捨ててしまった」という罪悪感や、その裏側にある「見捨てられた」という怒りを私が感じてから、それに向き合い、癒し始めるまでに、15年以上の歳月が過ぎているんですよね。

だからというわけではないのですが、どれだけ時間が過ぎたとしても、それを癒していくことができるように思うのです。

「そんな昔のことを…」「もう遅いのではないか」とあきらめるの必要は、まったくありません。

それは誰のものでもない、あなた自身の大切な感情なのですから。

どれだけ時間が経ったとしても。

あなたは、あなた自身を癒していくことができます。

今日は、「見捨てられた」という怒り、というテーマでお伝えしました。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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