早いもので、今日から2月になりました。
和名では「如月」。
その語源は諸説あるようですが、まだ厳しい寒さが続くこの時期、着るものを重ねることから、「衣更着(きさらぎ)」という語から転じた、というものが有力なようです。
なんとも美しく、風流な名ですよね。
寒さは厳しいですが、そんな中にも、ほんのわずかに寒さが緩むような、そんな気配を感じることもあります。
また、梅の花などの、早春の訪れを告げる花が咲くのも、また楽しみですよね。
今週末には、立春も訪れます。
少しずつ少しずつ、季節は流れていくようです。
そんな折、蓮の花を見かけました。
湖面に咲く、蓮の花。
その姿は、どこか静けさの中にありながらやさしく、それでいて美しく。
蓮の花は、仏教では神聖な花とされます。
泥の中にありながらも、汚れることなくまっすぐにその茎を伸ばし、美しい花を咲かせる。
蓮の花は、いろんなことを教えてくれるようです。
その花を見ていると、私の好きな坂村真民さんの詩が、思い浮かびます。
すべての人がしあわせを求めている
しかし幸せというものは
そうやすやすとやってくるものではない
時には不幸という帽子をかぶって
やってくる
だからみんな逃げてしまうが
実はそれが幸せの
正体だったりするのだ
わたしも小さい時から
不幸の帽子を
いくつもかぶせられたが
今から思えばそれがみんな
ありがたい幸せの帽子であった
それゆえ神仏のなさることを
決して怨んだりしてはならぬ
坂村真民「幸せの帽子」
以前にも、ここで引用させていただいたことがありましたが、あらためて、いい詩だなと感じます。
諦念と静けさのなかにありながら、世界と己への深い理解と洞察が感じられます。
不幸の帽子。
幸せの帽子。
そして、
「神仏のなさることを、決して怨んだりしてはならぬ」
この最後の一文が、とても深く私の心に響きます。
「起きていることは、すべて正しい」。
そんな言葉があります。
目の前に映るものは、何一つまちがってもいないし、ただそれが「在る」ということは、すべて神仏の思し召しなのかもしれません。
もちろん、この世界にはままならぬことや、思い通りにいかぬこと、あるいはすれ違いや人間のどうしようもない悪意といったものもあります。
けれども、それもこれも、すべて「在る」。
「在る」ことは、それが神仏の思し召し。
それは、諦めのように見えますが、決してそうではありません。
「神仏のなさることを、決して怨んではならぬ」
そう認めることができたなら。
自分自身がここに「在る」こともまた、認められるからです。
私たちの不安の多くは、ここに「在る」ことの不安からやってきます。
「自分はここにいてもいいんだろうか」
「私はこの世界にいる価値があるのだろうか」
存在に対する根源的な否定を、そこに「在る」ことを否定されることを、私たちは何よりも怖れます。
そこにいてもいい。
ここにいてもいい。
そう信じるためには、そこに「在る」ことをまず認めることが、何よりも大切なのかもしれません。
「神仏のなさることを、決して怨んではならぬ」
蓮の花と、坂村真民さんの言葉から。
そんなことを考える、如月のはじめでした。