今週末が諸々の文章の締切でして、今日も今日とて、書くことと向き合っております。
以前は、ほとんど一筆書きで、誤字脱字を後からチェックするくらいだったのですが、今回は何度も書き直しています。
それは、一本の木から仏像を彫るような作業をしているような、そんな感覚になったりもします。
仏像を彫るといえば、思い出す漫画があります。
手塚治虫先生の「火の鳥」の「鳳凰編」です。
手塚先生のライフワークともいえる、「火の鳥」。
初めて読んだのは、小学生のころだったでしょうか。
その中でも「鳳凰編」は、私が強く影響を受けた作品の一つでした。
時は奈良時代。
不幸な生い立ちと、醜い容姿、そして幼少期に片目・片腕を失い、野盗として生きる我王(がおう)。
容姿端麗で、都で将来を有望視された仏師の茜丸(あかねまる)。
この二人をめぐる数奇な物語に、魅了されたものです。
「火の鳥」には、全編を通じて生と死、あるいは輪廻といった、いくつもの深淵なテーマが流れています。
しかし、我王と茜丸という二人の「表現者」としての物語に、心惹かれるのです。
野盗をしていた我王に、仏師としての命ともいえる利き腕を切りつけられた茜丸。
まだ動く腕がある、と精進を重ねるうちに、社会的な成功を収める茜丸。
良弁僧正との出会いにより、魔よけの彫刻を彫る才能に目覚める我王。
僧正と旅をしながら、掘り続けるうちに、我王の内面もまた変改していきます。
物語のクライマックスは、時の権力者により、東大寺大仏殿の鬼瓦をつくるにあたり、茜丸と我王のどちらか優れた方を採用するという場面。
我王の才能には勝てないと恐怖する茜丸。
ずっと粘土と向き合っていたかと思うと、無我夢中で鬼瓦をつくりはじめる我王。
いやぁ、思い出しているだけでも、痺れるものがあります。
以前は、悪行の限りを尽くしたのちに、仏像を彫るという使命に目覚めた我王に、惹かれていました。
彫刻を彫る才能の天才性に惹かれていたのでしょうか。
けれども、いま思い返してみると、茜丸にも共感してしまうのです。
我王に利き腕を切りつけられ、それでもまだ自分には一本腕があると、精進を重ねる姿。
運命を、環境を、そして自分の身に起こることを他責にしない、その強さ。
しかし悲しいかな、精進を重ね、社会的な成功を得るほどに、世俗にまみれて権力者に取り込まれていってしまう。
純粋に仏師としての腕を磨いていた茜丸からは考えられないくらい、物語の後半には、何かに憑かれたように邪悪な姿を見せてくれます。
その姿もまた、心を打つんですよね…
我王も、茜丸も、どちらも私のなかにいるようです。
どうにもならない環境を嘆き、悪行に走る我王。
与えらえた運命を受け入れ、その中で生きようとする茜丸。
その我王のなかに宿る、仏師としての才能。
茜丸の目を曇らせる、世俗や権力という化け物。
どれもが、私のなかにあるようです。
書いていると、そんなことを想うのです。
さて、そんなこんなではありますが。
締め切りまで、あと少し。
ジタバタと見苦しくあがいて、がんばってみます。
自分のなかの我王と、茜丸を信じて。