「諦める」と聞くと、何かを断念するネガティブなイメージがあります。
しかし、その語源を紐解いていくと、決してそうではないようです。
「諦める」とは、誰かとともに生きるために必要な要素であるようです。
1.「できない」ことを認めるという自己受容
昨日の記事では、「感情はコントロールできない」というお話から、その「できない」ことを認めることは自己受容である、というテーマでお伝えしました。
自立的な人ほど、すべてをコントロールしようとしたがりますし、「できない」ことを認めることができないものです。
しかし、「できない」ことを「できない」と認める前に、それを「できるもん!」と言い聞かせてしまうのは、しんどいものです。
それは、自分は魚なのに、「空を飛べるもん!」と言い張るようなものです。
(あ、書いていて思ったのですが、トビウオみたいに空を飛べる魚もいましたね…)
「できない」とこを「できない」と認めるのは、決してネガティブなことではありません。
自立的な人ほど、それは「負けた…」と感じてしまうので、認めたくないものですけれどね。
はい、私も自分が「できない」ことを認めるのは、抵抗があります笑
けれど、「自分はこれができない」と認めてこそ、自分の中に選択肢が生まれるわけです。
「じゃあ、できるようになるまで努力しよう」
「それができるようになるのは、諦めよう」
などなど、いろんな選択をとることができるようになります。
こうした選択肢は、「できない」ことを認めていないと、なかなか生まれてきません。
今日は、そのなかの「諦める」ことについて、少し考えてみたいと思います。
2.「諦める」の語源は、「明らめる」
「諦める」と聞くと、なんだかネガティブなイメージがありませんか?
なんだか、負けてような気がするし、仕方なく諦めるというような、嫌なイメージがありますよね。
けれども、その語源を紐解いていくと、決してそうではないんですよね。
「諦める」の語源の一説は、「明らめる(あからめる)」だそうです。
ものごとの事情や原因、その理由などを知ることで、明らかにしていくこと。
それは、必ずしもいいことばかりとは限りまさん。
それを知ることで、何からの希望を断念せざるを得ないこともあることから、いまの「諦める」の意味でも使われるようになったそうです。
「諦める」には、断念するといったニュアンスがありますが、もともとは単に事実を明らかに見る、という意味でした。
事実をありまのままに見ること。
それは、現実をやこの世界を、そして自分自身を直視して、それらをありのままに受け入れることに他なりません。
昨日の記事で、「できないことを認めるとこは、自己受容である」と書いたのは、まさにこの意味ですね。
「諦める」ことは、決してネガティブな意味ではありません。
むしろいまの世界をそのままに受け入れ、そこからどう生きるかを問うことのできる、自己肯定のなかの一部と見ることもできます。
3.諦めてこそ、誰かとともに生きられる
大切なことは、この「諦める」ことを受け入れてこそ、私たちは誰かとともに生きられるようになる、ということです。
もちろん、自分自身のことについて、「明らめる」ことができたとして、それをできるように自分で努力する、というのも選択肢の一つです。
いまの自分の体重や体脂肪率などを「明らめる」ことで、「運動しよう!」と思い立つわけです笑
けれども、先に書いたような、「自分でできないこと」の場合は、「誰かに頼る」という選択肢ができるわけです。
たとえば、私は視力が悪くて、左右ともに0.5もありません。
メガネをかければ車の運転はできますが、これが飛行機のパイロットとしては、適性はないですよね。
(もちろん、年齢とか試験とか、その他の適性は抜きにしてです笑)
視力の悪い私には、できないことがある。
でも、世の中にはそれができる人がいるから、私も飛行機に乗ることができます。
当たり前の話かもしれませんが、実にありがたいことです。
「諦める」ことは、誰かと生きるために必要な要素といえます。
「諦める」ことができてこそ、私たちは誰かを頼ることができますし、逆に自分を与える場面を意識することができます。
「諦める」ことは、決してネガティブなことではなく、自己受容の一つであり、また誰かとともに生きるために必要な要素です。
今日は、「諦める」ことについて、少し考えてみました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
〇大嵜直人のカウンセリングの詳細・お申込みはこちらからどうぞ。
※ただいま7月度の個人カウンセリングを募集中となります。
〇カウンセリングのご感想のまとめはこちら。