「才能」と聞くと、それを何か形にしたり、結果を出したりしないといけない、と感じてしまうものです。
けれども、そうではありません。それは、パートナーシップのすばらしさとよく似ているようです。
1.才能のあらわれ方
先日の記事では、「才能」の表れ方、というテーマでお伝えしました。
「才能」の表れ方 ~クレーマーの才能、嘘をついてしまう人の才能 - 大嵜直人のブログ
「才能」とは、心理学では"gift"と表現されることがあります。
文字通り、「与えられた」ものである、というニュアンスがあります。
「与えられた」ものであるがゆえ、それをしている、選んでいる、努力している、という感覚ではなく、息を吐くように当たり前にしていること。
そういった「当たり前」の感覚が、ここでいう「才能」の意味に近いものです。
「気づけば、周りの人の考えていることを察してしまう」
「疲れていても、誰かと会うと元気なそぶりをしてしまう」
「いつも、どうやったら目の前の人が笑顔になるかを考えてしまう」
何も意識していなくても、してしまうこと。
ついつい、やってしまうこと。
そうしたことに、「才能」は深くかかわってきます。
それは、その人がその人であるために必要なことであり、その人のアイデンティティの一部であるともいえるのでしょう。
もちろん、それゆえに、深く悩んだり、自分を責めてしまうこともあることでしょう。
「周りの人の気持ちを察しすぎて、自分の気持ちをないがしろにしてしまう」
「カラ元気のしすぎで、家に帰ると動けないくらいぐったり」
「悲しそうな人を見ると、自分のせいだと思ってしまう」
…などなど、思い当たる節がある方も、多いかもしれません。
そして、そうした「才能」は、なかなか自分では気づかないものです。
むしろ、「才能」ととらえるよりも、自分では「短所」「欠点」として認識されていることすら、あります。
先日の記事では、「クレーマーの星」、「嘘をついてしまう」といった資質を持つ方の「才能」を、見てみました。
2.形になっても、ならなくても
逆は真ならず
さて、そうした「才能」の性質をお伝えした上でなのですが、今日は「才能が形になることにこだわらない」というテーマをお伝えしたいと思います。
なんとなくですが、「才能」と聞くと、それが何か具体的な形や結果として表れることが、素晴らしいことのように聞こえるものです。
「形や結果にならないと意味が無い」という感じすら、あるかもしれません。
もちろん、何らかの「才能」が花開き、それが形や結果として表れることは、素晴らしいことです。
ただ、そこにこだわり過ぎるとしんどくなる、というお話です。
形や結果になるということは、他人からの評価や評判であったり、金銭的な価値であったりが生まれる、ということと言い換えられるのでしょう。
それはとても素晴らしいことです。
「才能」が形になることは、とても素晴らしい。
しかし、形にならないから、その「才能」は素晴らしくないかというと、決してそうではないんですよね。
逆は真ならず、とでも言いましょうか。
パートナーシップにたとえると
パートナーシップに例えて、少しお話をしてみましょうか。
誰かに心惹かれるのは、何か魅力を感じるからだと思います。
この人は、やさしい。
この人は、何ごとに対しても真摯。
この人の感性は、自分ととても合う。
何からの魅力や価値を感じるから、その人に惹かれ、パートナーシップがはじまる。
しかし、パートナーシップのすばらしさは、そうした魅力を感じた点が、何一つなくなったとしても、「あなたはわたしの愛おしい人」と言えることだったりします。
まあ、関係性が長くなればなるほど、相手のイヤな面だったり、受け入れ難い面を感じるようになったりもしますよね。
でも、そうしたプロセスを経て、なお「あなたはわたしの愛おしい人」と言えること。
そこに、パートナーシップのすばらしさがあります。
たとえ、相手が何かを失ったとしても、何かをなくしたとしても。
それでも、相手のなかに光や価値を見続けること。
それは、とりもなおさず、自分に対しても、同じ視線を向けることにもなります。
何かが形になっても、ならなくても。
あなたがいること、それだけでいい。
わたしがいること、それだけでいい。
3.生まれてきただけで、出逢っただけで。
なんというか、「才能」が形になったり、何からの結果となったりするのは、ある意味でおまけのようなものかもしれません。
もちろん、それを形にしようと努力したり、研鑽を積むことは、大切なことです。
けれども、それを目的にしてしまうと、なんだかしんどくなってしまうのかもしれません。
先ほどのパートナーシップのたとえでいえば、相手に対して、何かしてもらおうとか、何か与えてもらおうとか、そういったことを求める時期も、あるのでしょう。
ええ、あっていいんです、にんげんですから笑
けれども、パートナーシップの究極的な美しさとは、出逢えたことに感謝できることに行きつくと思うのです。
「あなたと出逢えて、ほんとうによかった」
相手が何かできなくても、何かを失ったとしても。
出逢えただけで、それでじゅうぶん。
そう言えるとき、わたしたちは自分の生をも、究極的に肯定しているといえると思うのです。
「才能」もまた、それと似ているように思います。
それが何か形になったとしても、ならなかったとしても。
何らかの結果がでたとしても、でなかったとしても。
どちらでもいいことなのかもしれません。
わたしがわたしとして生まれてきて、よかった。
生まれてきただけで、もうじゅぶん。
そう感じられることが、一番大切なことなのかもしれません。
今日は、「才能」の認め方、というテーマでお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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