愛を受けて人は生まれ、愛を探して人は生きます。
私たちは、どこかその愛がドラマ仕立てのなかに、何かが隠されているように感じることがあります。
大きな悲しみの底にしか、ほんとうの愛は見つからないように。
艱難辛苦を舐めた先にしか、成功と愛は存在しないみたいに。
裏切りの果てにしか、真の信頼は芽生えないみたいに。
だから、とかく私たちは、なんにもないことを嫌います。
からっぽ。
空白。
暇。
無駄。
そんなものを見ると、どうしても何かで埋めたくなってしまうものです。
けれども、人のもっとも偉大な力の一つは、何の条件もなく、何の制限もなく、いま、ここで喜びを感じることができる、ということです。
とかく思考は、あれをしろ、これをせえ、何が足りんと、ああだこうだ、うるさいものです。
なんにもない空白を愛することは、私たちにとって、なかなか怖いことではあります。
その怖さは、どこか「私」という記号を脱いで生きることの怖さと、似ているような気がします。
「大嵜直人」という記号を抜きにして、誰かと関わることは、とても難しく、それでいて怖いものです。
けれども、ふと振り返ってみると。
思い出される時間は、なんにもない一日の、ありふれた時間だったりします。
もちろん、それは過ぎ去ってしまえば、ありふれてもいないのでしょうけれども。
田んぼのあぜ道をただ歩いていた時間だったり、
失敗して潰れた目玉焼きの色だったり、
仕事に疲れてぼんやりうつむいた顔だったり、
Tシャツに汗がびっしょりと張り付いた背中だったり、
そんなものばかりが、浮かんできます。
それは、劇的なものは何もありませんし、何かが起こった日だったわけでもありません。
きっと、そこには「在った」のでしょう。
そうだとしたら。
あなたがなんにもなかったと思う今日にも、きっと「在った」のでしょう。
なんにもない日を、愛しましょう。
もし、あなたが、なんにもないと感じたとしても。
今日、あなたがそこにいてくれて、私はとてもうれしいのです。