大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

なんにもない日を、愛そう。

愛を受けて人は生まれ、愛を探して人は生きます。

私たちは、どこかその愛がドラマ仕立てのなかに、何かが隠されているように感じることがあります。

大きな悲しみの底にしか、ほんとうの愛は見つからないように。

艱難辛苦を舐めた先にしか、成功と愛は存在しないみたいに。

裏切りの果てにしか、真の信頼は芽生えないみたいに。

だから、とかく私たちは、なんにもないことを嫌います。

からっぽ。

空白。

暇。

無駄。

そんなものを見ると、どうしても何かで埋めたくなってしまうものです。

けれども、人のもっとも偉大な力の一つは、何の条件もなく、何の制限もなく、いま、ここで喜びを感じることができる、ということです。

とかく思考は、あれをしろ、これをせえ、何が足りんと、ああだこうだ、うるさいものです。

なんにもない空白を愛することは、私たちにとって、なかなか怖いことではあります。

その怖さは、どこか「私」という記号を脱いで生きることの怖さと、似ているような気がします。

「大嵜直人」という記号を抜きにして、誰かと関わることは、とても難しく、それでいて怖いものです。

けれども、ふと振り返ってみると。

思い出される時間は、なんにもない一日の、ありふれた時間だったりします。

もちろん、それは過ぎ去ってしまえば、ありふれてもいないのでしょうけれども。

田んぼのあぜ道をただ歩いていた時間だったり、

失敗して潰れた目玉焼きの色だったり、

仕事に疲れてぼんやりうつむいた顔だったり、

Tシャツに汗がびっしょりと張り付いた背中だったり、

そんなものばかりが、浮かんできます。

それは、劇的なものは何もありませんし、何かが起こった日だったわけでもありません。

きっと、そこには「在った」のでしょう。

そうだとしたら。

あなたがなんにもなかったと思う今日にも、きっと「在った」のでしょう。

なんにもない日を、愛しましょう。

もし、あなたが、なんにもないと感じたとしても。

今日、あなたがそこにいてくれて、私はとてもうれしいのです。