大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

痛みは、意識を「いま、ここ」に向けさせるから。

月が変わって、朝晩は幾分か涼しくなったものの、まだ日中は暑い日が続きます。

そんな週末の午後、娘とプールに行ってきました。

娘を連れて行ったのか、それとも連れてきてもらったのか。

子どもといると、それがほとほとよく分からなくなります。

水遊びがしたい娘と、運動不足を解消しようとする私の利害が、一致しているのは確かなのでしょう。

なんだかんだと遊んでの、帰り道。

どこかでジュースを買おうか、というような話をしていたら、不意に視界が揺れました。

 

駐車場の車止めに気づかず、つまづいて転んでしまったのです。

プールだからと、サンダルで来ていた私。

見ると、右足の親指から、みるみるうちに血がにじんで滴っていました。

だいじょうぶ?と娘が心配そうに覗き込んできます。

ああ、だいじょうぶ、と言ってはみたものの、親指は熱を持ったように、その痛みを主張してくるようでした。

ふだん、日常生活のなかで忘れていた「痛み」。

その「痛み」に悶えながら、家までの帰路をゆっくりと歩いていくのでした。

 

家で消毒液を塗って、バンドエイドを貼って。

応急処置はなんとか終わったものの、「痛み」はまだその存在を主張します。

「痛み」があること。

それは、私たちの意識を「いま、ここ」に向けさせるようです。

過去でも未来でもなく、「いま、ここ」。

そこから、視線を外せなくなります。

もちろん、「その『痛み』の原因を何とかしないとまずいぞ」、という身体からの指令なのですから、当然なのですが。

しばし、その「痛み」とともに過ごすことになりました。

娘は「だいじょうぶ?」と言いながらも、その手にはもうゲームのコントローラーが握られているのを、私は見逃しませんでしたが笑

 

身体の「痛み」。

それが、「いま、ここに注意を向けなさい」という肉体からのサインであるならば。

心の「痛み」もまた、同じなのかもしれません。

寂しさ、悲しさ、悔しさ、憤り…

そうした心の「痛み」を感じるときは、ずっと見過ごしていた何がしかのものが、そこにあることを教えてくれているともいえます。

伝えられなかった想い。

抑え込んでしまった感情。

あるいは、届けられなかった愛。

心が「痛み」を感じるとき、もしかしたら、そうした何がしかが、そこにはあるのかもしれない。

「ここに、目を向けなさい」

身体が教えてくれるように、そんなことを心が教えてくれるのかもしれない。

熱を持ったような親指の痛みを味わいながら、ぼんやりとそんなことを考える日でした。