月が変わって、朝晩は幾分か涼しくなったものの、まだ日中は暑い日が続きます。
そんな週末の午後、娘とプールに行ってきました。
娘を連れて行ったのか、それとも連れてきてもらったのか。
子どもといると、それがほとほとよく分からなくなります。
水遊びがしたい娘と、運動不足を解消しようとする私の利害が、一致しているのは確かなのでしょう。
なんだかんだと遊んでの、帰り道。
どこかでジュースを買おうか、というような話をしていたら、不意に視界が揺れました。
駐車場の車止めに気づかず、つまづいて転んでしまったのです。
プールだからと、サンダルで来ていた私。
見ると、右足の親指から、みるみるうちに血がにじんで滴っていました。
だいじょうぶ?と娘が心配そうに覗き込んできます。
ああ、だいじょうぶ、と言ってはみたものの、親指は熱を持ったように、その痛みを主張してくるようでした。
ふだん、日常生活のなかで忘れていた「痛み」。
その「痛み」に悶えながら、家までの帰路をゆっくりと歩いていくのでした。
家で消毒液を塗って、バンドエイドを貼って。
応急処置はなんとか終わったものの、「痛み」はまだその存在を主張します。
「痛み」があること。
それは、私たちの意識を「いま、ここ」に向けさせるようです。
過去でも未来でもなく、「いま、ここ」。
そこから、視線を外せなくなります。
もちろん、「その『痛み』の原因を何とかしないとまずいぞ」、という身体からの指令なのですから、当然なのですが。
しばし、その「痛み」とともに過ごすことになりました。
娘は「だいじょうぶ?」と言いながらも、その手にはもうゲームのコントローラーが握られているのを、私は見逃しませんでしたが笑
身体の「痛み」。
それが、「いま、ここに注意を向けなさい」という肉体からのサインであるならば。
心の「痛み」もまた、同じなのかもしれません。
寂しさ、悲しさ、悔しさ、憤り…
そうした心の「痛み」を感じるときは、ずっと見過ごしていた何がしかのものが、そこにあることを教えてくれているともいえます。
伝えられなかった想い。
抑え込んでしまった感情。
あるいは、届けられなかった愛。
心が「痛み」を感じるとき、もしかしたら、そうした何がしかが、そこにはあるのかもしれない。
「ここに、目を向けなさい」
身体が教えてくれるように、そんなことを心が教えてくれるのかもしれない。
熱を持ったような親指の痛みを味わいながら、ぼんやりとそんなことを考える日でした。