今日は、春分の日ですね。
祝日でもあり、春のお彼岸の中日でもあります。
太陽が真東から昇り、真西に沈む日。
日の出から日の入りまでの昼の時間と、夜の時間が、ほとんど等しくなる日。
冬至、立春を経て訪れる、また新しいはじまりの日でもありますね。
私の住んでいる名古屋では、雨の日で、残念ながらお日さまを見ることはできませんでした。
まだ本格的な春は遠いような、そんな冷たい雨が降っていました。
分厚い雲の向こう側の、お日さまを想像しながら。
そんな、春分の日でした。
昼と、夜が半分ずつの日。
実際には、ほんの少しだけ、昼の時間の方が長いようですが、それもまた不完全のなかの完全さを、教えてくれているのでしょうか。
分厚い雲を見上げながら、半分ずつ、折り返しという言葉を、思い浮かべておりました。
以前に小売業に勤めていたころ、「売上の折り返し時間」という考え方を、先輩から教わったことを思い出します。
10時開店、20時閉店。
そのなかで、どの時間がその日の売上の半分になるのか。
それを予想しながら、商品の手配をしたり、人の準備をしたり、売上の進捗を見ながら考えるヒントにするわけです。
客層にご年配の方が多い和菓子では、15時くらいとか。
夕飯のおかずのお惣菜の売り場では、もっと遅くて17時とか18時とか。
折り返し、という言葉に、そんなことを思い出しておりました。
マラソンなんかでは、「折り返し地点」が分かります。
学校生活も、小学4年生になれば「あと半分」とばかりに、折り返しの地点が分かります。
ペナントレースも、あと〇試合で折り返しという地点は、あらかじめわかります。
しかし、人が生きるなかで「折り返し地点」は、あるのでしょうか。
それを寿命ととらえれば、自分が死ぬ時間は分からないわけですから、折り返し地点がいつかは分かりません。
あの世で振り返ってみて、「あぁ、40歳が折り返しだったんだな」ということがわかるだけなのかもしれません笑
けれど、人が生きることは、単にその生きている時間軸だけでも、ない気がするのですよね。
なんというか、いま生きている時間とは、また違う時間を生きることがあるような。
そう考えると、人が生きるなかでの折り返しとは、なんなのでしょうね。
季節のめぐりは、正確にまた同じところに戻ってきます。
どれだけ冬が寒く感じても、また同じように雪は溶け、花は咲きます。
灼熱の日差しが身を焦がしても、また同じように虫の音は止み、空は澄んでいきます。
歳を重ねるごとに、それを美しく感じるようになってきました。
春分もまた、同じように毎年めぐってくるようです。
折り返しなのか、はじまりなのか。
それは分かりませんが。
なにはともあれ、この美しき日がまた訪れたことを祝福したいと思うのです。
今日もここへお越しください、ありがとうございます。
あなたさまの春分の日もまた、美しいものでありますよう、祈っております。
春分の日の木蓮の花。少しずつ、その花びらを散らしていくようです。