大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

見えない虹に、想いを寄せる小雪のころ。

急に寒くなったかと思ったら、少しその寒さが緩んだように感じる、ここ数日の陽気です。

午後の日なたは暖かく、日差しのありがたさを感じる季節になってきました。

また今週末は寒波がやってくるようで、いよいよ冬が近づいてきたようです。

節気も、昨日から「小雪」。

その字の通り、雪が降り始めるとされるころで、山々は白い帽子をかぶりはじめ、木々はその葉を落とすころでもあります。

七十二侯では、「虹蔵不見(にじかくれてみえず)」。

大気が乾燥してきて、虹を見ることが少なくなる時期でもあります。

春の時候である「虹始見(にじはじめてあらわる)」と対を成す時候であり、私の好きな時候の名の一つです。

「にじかくれてみえず」とはいえ、なぜか私の記憶なかの虹は、冬の寒い時期に見たものも多いように思います。

ここのところ、故郷のことを思い出す時間があったのですが、刈り入れが終わった田んぼの上に、淡い虹が出ている情景が浮かびます。

西の方には、伊吹山という大きな山が見えていました。

冬にそちらから吹いてくるからっ風を、祖母や母は「伊吹おろし」と呼んで、寒い冬の代名詞のようでした。

夏生まれだからなのか、寒い冬の日の朝、学校に登校するのは億劫だったことを覚えています。

綿の手袋をするのですが、隙間から入ってくる冷たい空気は、どうしようもなく。

いまよりも、ずいぶんと寒かった気がするのは、その伊吹おろしのせいなのか、それとも暖冬化しているのでしょうか。

そんな寒い冬の日に見る虹は、どこかご褒美のような、そんな感じがするものでした。

「にじかくれてみえず」とは言いますが、虹はそんなに毎日見えるものでもありません。

それなのに「みえなくなる」とは、不思議なものです。

見えるもの、見えないもの。

「にじかくれてみえず」という言葉は、ただ見える・見えないで判断したものでは、ないのかもしれません。

「虹蔵不見」の「蔵」。

「かくれる」と読み、文字通り「蔵」にしまっておく、隠しておくといった意味があるようです。

そこに「ある」ものが、かくれているだけ。

それは、また季節がめぐると、姿を見せてくれる。

なくなるわけでもない。

ただ、かくれているだけ。

時が満ちれば、またあらわれる。

それはきっと、虹に限ったことでも、ないのかもしれません。

これをお読みくださっている、あなたの地域でも、寒くなってきているでしょうか。

虹はなかなか見えづらい時候になってきましたが、どうぞ暖かくしてお過ごしくださいね。

とある冬の日に見かけた虹。いかにも冬らしい雲をバックに、鮮明な虹でした。