「虹始見(にじはじめてあらわる)」の時候
朝晩の寒暖差が大きいようで、朝自宅を出ようとするとひんやりとする今朝でした。
着るものにも迷いますし、体調も崩しやすい時期でもありますよね。
お風邪など召されたりしていませんでしょうか。
どうか、無理せずにご自愛くださいね。
とはいえ、吹く風が心地よい季節になりました。
透明感を増して、それでいて秋とはまた違った趣のある風。
木々は新緑に萌え、そしてツツジが咲き誇る季節です。
時候でいえば、「清明」の末。
七十二候では「虹始見(にじはじめてあらわる)」の時候です。
新緑の季節が深まるにつれて、空気が湿ってくることが多くなり、空に虹がかかることが多くなる時期です。
晩秋のころの「虹蔵不見(にじかくれてみえず)」と対をなす時候でもあります。
虹がかかるころ、田植えの準備がはじまり、そして虹が見えなくなるころ、稲刈りが終わります。
連綿と繰り返される季節のめぐりは、そのままに私たちの生の営みと結びついているようです。
虹が見えるのは、虹を見ようと思っていないとき
虹とは、実に不思議なものですよね。
空にかかる、七色に輝く橋。
その姿は実に神聖で、見ると幸運を感じるようです。
古来より龍の化身であるとか、いろんな吉兆として扱われていたとも聞きます。
米作りをしてきた人たちにとっては、虹が見え始めると、田植えの準備をするサインだったのかもしれません。
そんな虹ですが、「虹を見たい!」と思っても、必ず見ることができるものでもありません。
(もちろん、ホースで水を撒くなりすれば、小さいに虹は見えるのかもしれませんが笑)
虹を見たときのことを思い返してみても、「虹が見たい!」と思って現れたことは、ないように思います。
「あ、あれ!虹が!」というような現れ方をすることが多いように思います。
コントロールしようとしていないときにしか、現れない。
実に天邪鬼ともいえますし、だからこそ、天の采配と感じることもできるのでしょう。
これが、「よし、虹を見よう」と思ったときに見えたら、同じように神聖な感じを虹に覚えるのでしょうか。
そうでもないように感じるのですが、どうなんでしょうね。
コントロールできないものに惹かれるのだから
私たちの心は、コントロールできないものに惹かれます。
虹も、同じかもしれません。
裏を返せば、私たちが惹かれるものは、コントロールすることが難しいもの、と見ることもできそうです。
人のご縁。
成功、あるいは名誉。
お金の流れ。
…そうしたものは、コントロールすることが難しいものです。
それらを一生懸命にコントロールしようとするのは、不毛なことかもしれません。
だから、あきらめましょう、というわけではありません。
それに向けて、できることはし尽くすことは、私たちの生を豊かにしてくれます。
人の縁を信じる。そのために、陰徳を積む。
努力を重ねる、努力をする場所を考える。
何のために、誰のためにお金を使うのかを明確にする。
そうしたことを積み重ねることは、とても大切なことです。
コントロールを手放したときに、それはふっと、入ってくることが多いものです。
虹が見えるのは、虹を見ようと思ていないときがほとんどです。
コントロールをしようとするのをやめたときに、気づくと入ってくるのかもしれません。
ふとした瞬間に、虹が見えるように。
数年前に川沿いの道で見た虹。そのふもとには、何があるのでしょうね。