今日は、何のこともないエッセイを。
それにしても、先週から急に寒くなりましたね。
観測史上、11月の最高気温だとか言っていたのがウソのように、急に気温が下がってきました。
心地よい秋を通り越して、いきなり「冬」に突入したような感があります。
時候は「立冬」も中ほどであり、七十二侯では「地始凍(ちはじめてこおる)」のころ。
寒さで地面が凍り始めるとされるころですから、当たり前と言えば当たり前なのかもしれません。
私も、慌てて冬用の布団を引っ張り出したり、冬に着る衣服を探したりと、どたばたとしておりました。
なんというか、昔から苦手なんですよね、衣替えが笑
いまでこそ、「寒くなったなぁ」とか、四季の変化を感じ入るようになりましたが、ハードワークに勤しんでいたころは、あまりそうしたことに目が入りませんでした。
「え?まだ半袖なの…?」と同僚に言われて、ようやく衣替えをする、そんなこともありました笑
その時分から考えると、ずいぶんと季節のことや、過ぎゆく風景なんかに目が行くようになったものだなと思うのです。
ようやく、それだけ癒されたといえるのかもしれません。
季節のめぐりは、実に大切なことを、いつも私に教えてくれるようです。
秋が過ぎゆき、冬がやってくる。
そんなとき、私は夏の空を想うのです。
あんなにも膨大な熱量をもった日差しは、いったいどこへ行ってしまったのだろうか、と。
太陽と、この星の距離が離れたから、と説明すれば済む話なのでしょうけれども。
それでも、過ぎた葉月のあの日、あの時間に感じた熱量。
それは、もうどこにもなくて。
また半年後には、また同じような日差しは、戻ってくるのかもしれません。
けれども、その日差しは、あの日の日差しではないから。
だから、木枯らしが吹いても、その熱量を想うんです。
あの日に交わした言葉が、いまどこを探しても見つからないように。
あの日に読んだ言葉と、いま読んだ言葉が、同じであっても異なるように。
私はずっと、その感覚は、もう同じものには出会えないという喪失感からくるものだと思っていました。
その日差しだけが持つ唯一性、とでも呼ぶのでしょうか。
その日差しには、今日しか出会えない。
いや、今日というよりも、いまこの瞬間にしか、出会えない。
そして、それは出会った側から、失われていくようでもあります。
それはどこか、世の中にたった1枚しか存在しない、貴重なトレーディングカードのようなものかもしれません。
唯一性には、それが失われる喪失感と、その怖れがつきまとうものです。
世界に1枚しかないカードを失くしたときのショックといったら、どれほどのものでしょうね笑
けれども、最近はこうも思うのです。
その喪失感や怖れとは、もしかしたら、その日差しに出会えたことに対する喜びの、一つのあらわれではないかと。
喜びと、喪失感と。
その狭間は、どこか唯一性と一般性のあいだのゆらぎに似ているのです。
そんな木枯らしが吹く秋の日に、思いふけっておりました。
冬支度をせねば、ですね。
これをお読みのあなたも、どうかあたたかくしてお過ごしくださいませ。