ここのところ、故郷のことを想うことが多い。
思い出す、と言った方が正確だろうか。
不思議と思い出すのは、わたし自身が生まれた頃の晩夏のころの故郷だ。
春の桜並木も、東洋一と謳われた藤棚も、冬の木枯らしと伊吹おろしも、秋祭りも、四季折々の思い出があるはずなのだが、なぜか思い出されるのは、晩夏のころだ。
うだるような暑さ、アスファルトの逃げ水、市民会館横の公園での蝉取り。自転車のハンドルの熱。
どこか故郷の記憶は、晩夏と結びついている。
故郷と、生まれた季節というのは、どこかつながっているのだろうか。
時に、故郷を訪れたとき。
記憶の中のそれとどこか一致しない、間違い探しの絵のような感覚を覚える。
あの建物はそのままだけれども、これは見覚えがない。
流れる空気は変わらないようにも思えるけれど、やはりどこか違うような。
あの感覚を覚えると、その間違い探しの「オリジナル」はどこかにないものかと探してしまう。
記憶の当時に戻りたいわけでもないが、それでも「オリジナル」が失われるのは、どこか寂しく、喪失感がある。
それは、ぽっかりと空いたわたしの心の内なる虚空の、投影だろうか。
それとも、何かがなくなることへの、怖れだろうか。
そのどちらものような気もするし、どちらでもないような気もする。
ただ、その風景なり、その空気だったり、その日が、いま目の前にないことだけは、確かなようだ。
失くしたものは、景色だったのだろうか。
それとも、時間だったのだろうか。
あるいは。
どこかに、あの「オリジナル」が保存されていないものだろうか。
不朽の名作、「ドラえもん」。
子どものころによく読んでいた。それこそ、故郷にいた頃だ。
ドラえもんの出してくれるひみつ道具に、こころを躍らせたものだ。
その中でなぜか心惹かれたストーリーに、「空気中継衛星」なるものがある。
スネ夫が例の調子で「うちにおもしろいものがあるよ」と言ってみんなを集めて披露したのが、「世界の空気の缶詰」だった。
南極や、ハワイのワイキキビーチ、マッターホルンの頂上…世界のいろんな場所の空気が詰められた缶詰だという。
のび太はどんな空気なのかと、興味本位でそれを開けてしまい、それにスネ夫が「開けたらそれっきりじゃないか!これは缶のまま楽しむものなんだ!」と激怒する。
窮したのび太は、例のごとくドラえもんに泣きつき、ひみつ道具の「空気中継衛星」なるものを出してもらう。
それは、家にいながらにして世界各地の空気が送られてくるシロモノで…というストーリーだったように覚えている。
ストレングスファインダーで「収集心」第3位を持つ私は、いたくその缶詰に惹かれた。
そんなものがあるのなら、ぜひ入手したいものだ、と。
何の役にも立ちそうにもないが、それでも集めたくなるのがコレクター魂である。
「プシュ」とのび太が缶詰を開けてしまったとき、どんな匂いがしたのだろうと、ワクワクしたものだ。
故郷を想うとき、不思議とその「世界の空気の缶詰」も思い出される。
もしも、あの場所の、あの一日が、詰まっている缶詰があったとしたら。
「19〇〇年8月〇日 〇〇市」
そんなラベルが貼ってある、缶詰。
その缶詰の中には、その日のその場所の一日が詰まっている。
雨の日だったかもしれない。残暑の厳しい日だったかもしれない。
誰かが買い物にスーパーに行き、誰かは公園で遊んでいた。
ただ、普段と変わらない、その一日。
そんな一日が詰まっている缶詰があったとしたら。
とても、こころ惹かれてしまう。
そんなことを、想像してしまう。
ほんとうに、そんな缶詰があったとしたら。
やはり、わたしはのび太のように、衝動的に「プシュ」と開けてしまいそうな気もするが、どうなのだろう。