大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

冬至に考える、自分の闇を愛するということ。

昨日は「冬至」でした。

かぼちゃを食べたり、柚子湯に浸かったりして、無病息災を願う時候ですね。

同時に二十四節気の一つであり、一年のなかで最も昼の時間が短い時期。

夏至を過ぎて、徐々に徐々に弱まってきた陽の力が、もっとも弱くなる極を迎える日です。

それは同時に、この日を境に、また徐々に徐々に、その力を増していく日でもあります。

「陰極まれば陽と為す」

その言葉の通り、冬至が反転の極にあるというのは、よく言われるところです。

 

「陰」というフレーズで、ふと感じるのは、自分のなかの闇の部分でしょうか。

自分が蛇蝎のごとく嫌い、受け入れられないと感じている部分。

誰にでも、そんな部分があります。

そして、自分を愛するという旅路のなかで最も難しいのが、この自分の闇を愛するということかもしれません。

 

それを教えてくれるものが、パートナーシップといえます。

私たちは、自分自身がある種の魅力を感じる相手を、パートナーに選びます。

それは、自分が持っていない資質である場合もあるでしょうし、自分と似たような資質の場合もあるのでしょう。

何をしていても、どうしても惹かれてしまう、光の部分。

私たちは、パートナーにそうした光の部分を見ます。

そして、その光が私たちを照らし、また私たち自身を輝かせます。

 

しかし、パートナーシップの関係性が長くなるにつれて、その光の部分はやがてくすんで見えてきます。

「アバタもエクボ」の時代は終わり、パートナーのすることなすこと、気に入らない、そんな時期が訪れます。

「こんなはずじゃなかった」

「こんな人だとは思わなかった」

「いままで私は何を見ていたのだろうか」

パートナーシップのなかで、そんな想いをすることがあります。

あれだけ輝いていたパートナーはくすんで見え、それどころかどこまでも深そうなどす黒い闇が広がっている。

そんなふうに感じるようになることがあります。

 

そうしたパートナーの闇を見たときに感じるのは、嫌悪感だけではありません。

私たちは、愛されなかったときに傷つくよりも、愛せなかったときに深く傷つきます。

この人を愛したい。受け入れたい。

けれども、それができない。

そうしたときに、私たちは深く傷つき、罪悪感を覚えます。

そこに罪悪感があるからこそ、私たちは苦しみ、絶望したりもします。

別に、どこかの知らない誰かが見せてくれる闇であれば、それを無視することも、受け入れないこともできます。

「ふーん、そんなひどい人もいるんだ」で終わりです。

けれども、それがパートナーとなると、そうもいかない。

その闇を、受け入れることもしんどいし、受け入れないこともまた苦しい。

前門の虎、後門の狼。

かくも、パートナーが見せる闇とは、難しいものです。

 

しかし、そのパートナーが見せてくる闇。

それは、とりもなおさず、自分自身の闇でもあります。

はい、そうです、「投影」の心理です。もう耳タコとは思いますが笑

パートナーのなかに見える闇は、自分自身の闇。

言い換えると、それは自分自身が嫌っている部分ともいえます。

どうしても受け入れられず、認められず、こんなものはダメだと思っている部分。

パートナーは、そこを見せてくれている善意の協力者なのかもしれません笑

自分が最も忌み嫌っている、その部分。

その部分を愛することは、究極の自分を愛するかたちといえます。

 

それはさしずめ、最も強いエネルギーが宿るのが冬至であることと、同じなのかもしれません。

真夏の太陽こそが、その熱量を宿しているように見えます。

長所やできること、してきたことで、私たちは自分を愛そうとします。

けれども、真理は反転のなかにあります。

一年で最も陽の力が弱まっているときに、それを反転させることができるのは、膨大な熱量が宿ります。

自分の短所や受け入れられない闇、あるいは黒歴史といったもの、それこそが私たち愛するべきものです。

 

でも、自分の闇を愛するなんて、修行や苦行のようなものに感じますよね。

とても、そんなことはできない、と。

そこで、自分以外の誰かが要るんです。

ときにそれは、パートナーであるのでしょう。

自分のために、自分の闇を愛そうとして、愛せる人はなかなかいません。

けれども、大切な人、愛する人のためになら、その闇を愛することができる人は、たくさんいます。

だって、パートナーの闇を受け入れられなくて苦しむ人は、受け入れようとするからこそ苦しいのでしょうから。

愛する人のために。

 

その人の闇を受け入れるとき、私たちは同時に自分の闇をも愛することができるようになります。

そして、気づくんです。

闇だと思っていたものは、じつは闇ではなかった、と。

とっても、かけがえのない宝石のような財産だったことに。

それは、冬至のころの朝日のように、美しいものに感じることすら、あるかもしれません。

 

だから、大丈夫です。

季節がめぐるように、雲が移ろいゆくように。

かならず、あなたはあなたの闇を、受け入れられるときがきます。

あせらず、ゆっくり。

この美しき冬至のころの朝日を、眺めながら。

ゆっくり、歩いていきましょう。

どうあっても、あなたは大丈夫です。

冬至の翌日の朝日。冬らしく、凛として。