今日は人の心に「寄り添う」ということについて。
人って、変わるもんだなー、としみじみ感じております。
娘が保育園でトランプの「ばばぬき」「ひっくりかえすやつ」を覚えてきた。
「ひっくりかえすやつ」は「神経衰弱」のこと。
久しぶりに聞いたが、神経衰弱って、恐ろしい名前のゲームだな・・・
まあそんな話は別として、せっかくなので「しちならべ」を教えたら、ことのほか気に入ったようで、毎朝陽の登る前からの朝練に駆り出されている。
二人でやるため、「パス」という概念はほぼなく、先行超有利。
しかも娘が小さかったときにクラブの9をハサミで切ってしまっていたり、ダイヤのKはなくなっていたりと、いい感じのポンコツトランプなのだが、それはそれで楽しい。
ところが今朝は二人して二度寝してしまい、朝練は一回のみで時間になってしまった。
着替えようとすると、娘の顔がみるみる曇り、癇癪を起こし、
おとうさんが起きなかったから「しちぬき」できなくなっちゃった!
と騒ぐ。
そうだね。
もういっかい「しちぬき」やりたかったよね。
じゃあ、もう一回やろうか。
でも「しち」は「ぬく」んじゃなくて、「ならべる」んだよ。
だっこしながらそんな言葉をかけていると、娘は泣き止んで、
またにする、ごはんたべるー
と言っていた。
以前書いた「アリエルの紫の」と同じように、「しちぬき」をもう一回やるかどうかなんて、本当は大した問題ではない。
楽しかった時間が終わってしまって寂しい。
そんな気持ちに寄り添うことの方が大切だ。
そして、本当にもう一回やりたかったら、やればいい。
別に時間に遅れたところで、死にはしない。
そんな今朝の出来事を思い出しながら、私も少しは寄り添い、与えられるようになってきたのだろうか、と思う。
人は本当に自分に与えたものしか、他人に与えることができない。
そして自分の与えたものは、めぐりめぐって世界から受け取ることができる。
だとすると、私が寄り添えたのかどうかは、これから受け取るものでわかるのだろう。
そんな風に考えるだけでも、一日はまた豊かになる。
2018.2.26
前書いた「アリエルの紫の」はこちらですね。
「正しさというジャックナイフ」を振り回していたあの頃 - 大嵜 直人のブログ
思い返すと、私が自立をこじらせて周りに助けを求められず、正しさというジャックナイフを振り回し、無価値観から自己犠牲的な働き方をしていたのは、ほんの2,3年前です。
今でこそこんなふうに小さな先生と朝練にいそしむようになりましたが、あのころは誰も起きていない日の登る前に家を出て、始業の2時間も前から仕事をしていました。
もちろん夜も遅く、休日出勤も毎度のこと。
完全に仕事のみかというとそうでもなく、休日は家事をしたり、夕方に一度帰宅して風呂を手伝ったりとしていました。
けれど、どれだけやってもやっても、足りない気がする。
足りない気がするから、さらにやりつづける。
それでも、足りない。満たされない。
それはまるで穴のあいたコップに、苦労して集めた水を入れていくような不毛さでした。
どれだけ集めても、満たされない。
だから、もっと苦労して集めないといけない。
目の前を美しい季節が移ろっていくのも目に入らず、周りの人が手を差し伸べてくれているのにも振り払って、日々をロボットのように何かをこなしていくだけになります。
何のためにそれをしているのか、よく分からなくなり、生きていると実感することもできなくなり、ときにふと死への誘惑が頭をよぎったりします。
自立をこじらせたこのデッドゾーンと呼ばれる、この状態に陥ると、なかなか自分で抜け出すのは難しいですよね。
なので、問題をつくるわけです。
人間関係、お金、ギャンブルやアルコールなどへの依存、病気、事故・・・
そんな自作した問題を通じて、実は自分の穴の開いたコップが全ての原因だったと気付いていくわけです。
足りないものなんか、何もない。
私がいるだけで価値がある。
何かをできなくても、ダメでいい。
任せていい。頼っていい。
頑張らなくていい。
そうした自分が最も嫌悪していてやりたくなかったことは、実は人生を豊かにしてくれるものでした。
そして自分のコップの穴が塞げると、周りの人のコップの穴にも手を当てられるようになると思うのです。
それが、人の心に寄り添う、ということのなのかもしれません。
今日もお越し頂きまして、ありがとうございました。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。