いらっしゃいませ、ようこそお越しくださいました。
今日は、少し変わった私の実体験からどうぞ。
その夜、私は地下鉄の駅から自宅への道を歩いていた。
いつも通りの蛇足のおかわり二杯がだいぶ効いてはいた。
私の中の酩酊度セルフテスト。
歴代の三冠馬、全部言える?
セントライト、シンザン、ミスターシービー、シンボリルドルフ、ナリタブライアン・・・えっとディープインパクト、そんでもってオルフェーヴル・・・うん、まだ大丈夫。
そんなアホな脳内会話をしながら歩くと、交差点で5、6人くらいの人だかりができているのが目に入った。
見ると、その視線の先には道路工事の虎柄の柵に突っ込んで倒れてもがいている男性が見えた。
隣の男性に聞くと、信号待ちで突然倒れ込んできて騒ぎになって、救急車を呼ぶか本人に聞いたらいらないと答えたので110番したところだそうだ。
通報者の責務なのか、居合わせて放っておいて帰る罪悪感からなのか、みんなその場から動けないでいた。
すると突然、その初老の男性がむくりと座り「はがー、はがー」と呟きだした。
「はがー」って何だよ、昔ゲーセンにあった「ファイナルファイト」に出てくるムキムキの市長のことか?と思って聞いていたが、そのおっさんの眼を見たときに、あー、おっさん呑んでんなーと思った。
もしくはいけないおクスリか。
酔っ払いの友だちは、酔っ払い。
酔うと親切になるメリーポピンズタイプの私は、
「おとーさん、のんじゃった?持病とかじゃない?俺もたくさん呑んじゃってるから、しょーがないよねー、んで、さっきからはがーって何なん?」
と尋ねた。
「あぁ、のんだ。からだ、だいじょうぶ。けど、はがー、ない。はがー、ない。」
そういっておっさんは自分の右上の犬歯があるはずの空間を指さした。
そうか、転んだときに差し歯をどこかに無くしたのか。
「差し歯を探してるらしいんで、よければ一緒に探してくれませんか?」
そう周りに伝えると、みんなスマホのライトを点けて地面を這うように探し始めた。
優しい世界。
すぐに、あさってのところに転がっていた差し歯が発見される。
おっさん、ありがとうありがとうと周りに頭を垂れる。
「よかったな、おとーさん。おうちどこ?帰れる?一人暮らし?迎えに来てくれる人、いる?」
「むすこ、いる」
「ほいじゃ、迎えに来てもらいなよ。電話できる?」
おっさんは取り出したガラケーを開けて電話し始めたが、発信中の画面に表示されたのは「パソコン教室〇〇」という登録名と固定電話の番号だった。
「それ、ぜってー息子さんじゃねえから!」
と突っ込みを入れながら、何だかんだやいやい言いながら息子さんに電話がつながって、迎えに来てくれることになった。
そんなこんなしていると、通報を受けた警察がやってきた。
二輪に乗った若い女性の警察官だった。
ご協力に感謝します、と言われたので、
あ、いえ、私も潰れたときはよろしくお願いしますと返して、苦笑いの警官を尻目にお役御免となった。
私も、ときに深酒してしまうこともある。
同僚に「おおさきさん、記憶飛ばすのは20代までのお酒の特権のはずですが・・・」と苦言を呈されようが、40代も近づいたのに飛ぶものは仕方がない。
けれど。
だからこそ。
人だから、ときに呑んでしまうのも仕方ないと思う。
痛みを散らす悲しい酒の味は、飲めない人よりも分かると思う。
それは飲める人が飲めない人よりも気持ちがわかるとか、飲める方が人の気持ちがわかるからいいとか悪い、とかいう類の話ではない。
ただ、飲んでしまったときのバツの悪さや、悲しくて不味い酒を飲んでしまう人の気持ちが少しだけ分かる、というだけのことだ。
そして、もっと言うならば、ある人が同じように経験した問題や悲しみや経験は、その全てが似たようなことを経験しようとしている人のためのギフトかもしれない。
それはあるいっときにおいては、その人の存在理由を否定されるような経験かもしれないし、異に穴があくほど悩み尽くす経験かもしれないし、ときには深い絶望かもしれない。
けれど、問題は必ず感謝で終わる。
それはいつか必ずギフトになる。
今は信じられないかもしれないけれど。
たとえどんなに夜が長く感じられたり、分厚い雲の上に輝く星々があることを信じられなくなったとしても、それはその経験があったからこそ他者に与えられるギフトを丁寧に包んでいるときなんだ。
そんなことを酔った頭で考えながら帰宅したことを、さっきパトカーを見て思い出した。
この話が酔っ払った私の妄想ではないと信じているが、すぐに記憶を飛ばす私のことなので話半分くらいがちょうどいい。
2018.3.26
私の好きな言の葉の一つに、
誰でも人は、結局のところ、自分自身を体験するだけなのだ
ニーチェ「ツァラトゥストラはこう言った」より
というものがあります。
私がお酒を飲めなければ、お話ししたような体験をすることもなかったでしょう。
そして、あの日虎柄に突っ込んでもがいていた初老の男性は、私そのものだったように思うのです。
どんな問題であれ苦悩であれ、それを否定せずに自分の器にすぽっと受け入れることができたときに、それは自分と周りの人への大きな大きなギフトとなります。
そのときに、その問題はあなたを芯から輝かせる一つの恩恵になっているのかもしれません。
今日もお越し頂きまして、ありがとうございました。
名古屋では春らしい、だいぶ気持ちのいい気候になってきました。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。